CRITICISM/ARTICLE

90年代以降の世界の中の日本音楽

(1)
 日本では、1991年にバブル経済が崩壊した。だが、少なくとも音楽の受容(商品、情報双方の)に関しては、その後も一種のバブル的な状況が続いた。その象徴的な存在ともいうべきタワーレコードの渋谷店が現在の場所に移動したのは95年3月のことである。店舗だけで9フロアもあり、その広大なスペースを埋めるために、古今東西のCDが有能なバイヤーによって、あらゆる手段を用いてかき集められた。日本のタワーレコードの特殊性は、何よりもまず、その品揃えの異常なまでのレンジの広さによっている。
 とりわけ重要なことは、ニューヨークのタワーレコードに対するOther Music(タワーのすぐ傍にあり、タワーには置いていないアンダーグラウンドな商品を揃える)のような存在を、自らの内に抱え持ったことだった。かつてはマニアックなショップでしか見つけられなかったような、アバンギャルドでエクスペリメンタルなアイテムを取り揃えたそのコーナーは渋谷店の5階にある(ちなみに新宿店なら9階)。そこには「ニューエイジ」という名称が冠されているが、実際にあるのは、現代音楽と電子音楽のアウトサイダーたち、ノイズ音楽、ストレンジ音楽、果ては無名の新人がCDRで手焼きした自主制作盤などなど、である。
 渋谷という街は、90年代以後、東京の(ということはつまり日本の)ポピュラー・カルチャー、サブカルチャー、ファッションの中枢として機能している。タワーと並ぶ外資系大型チェーンであるHMVも、やはり渋谷に第一号店を出店している(90年11月)。HMVは90年代の音楽シーンを席巻した、いわゆる「渋谷系」(フリッパーズ・ギターとピチカート・ファイヴが二大旗頭だった)のブームを牽引したが、タワーはその地位を譲ったかわりに、従来のレコード店では「きわもの」と評されたであろうCDばかりが並んだ5階のコーナーに、けっして少なくないリピーター客を集めることに成功した。
 これには前段階がある。タワー渋谷店のそのコーナーは、長らくもっとも売れないジャンルであった現代音楽のコーナーをリニューアルした大阪・心斎橋店のバイヤーが社命を帯びて上京し腕を振るったものだが、実はタワーの開店と相前後して、その短い歴史に幕を卸した個人経営の弱小レコード店をひとつのモデルにしていた。その店の名前はパリペキン(Paris-Peking Records)といい、古い雑居ビルの一室にあった。5人も客が入れば身動きできなくなってしまうほど小さな店だったが、そこには驚くべき数の未知の音楽がぎっしり詰まっていたのだ。パリペキンの創業者のひとりは新宿にロスアプソン(Los Apson)という新しい店を構えた。こちらは今でも存在しているが、現在のオーナーは独立する前は六本木にかつてあったWAVEの名物店員だった。80年代バブル景気の代表的選手(現在は没落の一路を辿っている)だったセゾン・グループが展開していたレコード店であるWAVEも、マイナーなアイテムに対する感度という点で異彩を放っていた。渋谷にもWAVEはあったが、その規模縮小に伴い、六本木WAVEからロスアプソンへ、という道を歩んだ先輩に学んだバイヤーがタワーに転職した。そしてタワーの一極集中の時代が始まったわけである。ちなみにパリペキンの創業者のもうひとりは現在、特に名を秘す有名なアンダーグラウンド・レーベルを主宰している(本人はパリペキン閉店後、匿名性を好んでいる)。
 タワーレコードの「ニューエイジ」コーナーは、ある意味で、文字通り音楽リスナー&クリエイターの「新しい世代(ニューエイジ)」を産み出した。膨大だが系統だってはいない、つまり非=歴史的な(これが従来の音楽ファンとの決定的な違いである)、極めて混乱した聴取体験を背景に、多くがサンプリング以後のテクノロジーの助けを借りて制作された音楽は、ほとんどミュータントとでもいえるものだった。それらは、例のコーナーだけではなく、むしろタワーの全てのCDをミキサーにかけ、そのジュースを濃くしたり薄くしたりした、というようなものだった。そしてそうして作られたCDが、またタワーに並べられていったわけである。

(2)
 アップル社のラップトップ型コンピューター、マッキントッシュ・パワーブックが、音楽制作やライヴ・パフォーマンスにおいて頻繁に用いられるようになったのは、G3シリーズの発売以降のことだと思われる。それ以前のマシンのスペックでは、音のような大きなデータを問題なく扱うことは極めて困難だった。また各種の音楽制作ツールも、以前はアウトボード類が中心であったのに対し、優秀で強力なソフトウェアが次々と登場するに及び、スペースを取らず、携帯にも便利なラップトップにシフトする者が増えてきた。
 パワーブックG3が登場したのは1997年末のことである。これ以後、世界中に、いわゆる「ラップトップ・ミュージシャン」が次々と現れた。この現象は、80年代以来、市場的にも美学的にも成熟しつつあったテクノ/ハウスのインフラを再構成することになったばかりか、まったく新しい音楽世代の「シーン」への参入をも促すことになった。広義のポピュラー音楽の歴史において、それは演奏技術を無効化したパンク・ムーヴメント、既存の音素材の転用(Appropriation)を核とするサンプリング・テクノロジーの導入につづく、第三の「革命」であったといっても過言ではない。
 「ラップトップ」の積極的導入は、海外ではもっぱら、何らかの意味で、「反体制的」で「周縁的」なカテゴリーに属するアーティストたちによって推進されたが、と同時に、その初期段階における価格帯の高さは、パンク時代に中古ギターを買うような気安さを許すことはなかった。したがって「ラップトップ・ミュージシャン」の多くは、基本的には経済的に恵まれた環境にある者が多かった。日本でも例外ではなく、いちはやくG3(後にはG4)を音楽制作(と演奏)に使用しはじめたのは、一部の本物のラジカリストと単なる新しいもの好きを除けば、既に商業的にエスタブリッシュされたミュージシャンと、一定以上の時間と金を持った学生たちだった。学業(?)とリンクする形で「ラップトップ」を入手し、やがて音楽制作に興味を持っていった者も多かった。そして、いささか皮肉なことに、そうした必ずしも自発的ではない成り行きで「ラップトップ・ミュージシャン」になった者の中から、刺激的で優れた音の作り手が出てくることも少なくなかった。
 「ラップトップ・ミュージシャン」と呼ばれる者には、二種類の層が存在する。それ以前から、巧拙は置くとしても、ギターやドラムス等といった従来の楽器を演奏するミュージシャンであったが、あるきっかけを経て、ラップトップ・コンピューターを併用もしくは完全に乗り換えることになった者、もうひとつは、ラップトップ以前には一切の音楽経験を持っておらず、パワーブックを所有することが音楽を作る直接的な契機となったような、いわば生え抜きの「ラップトップ・ミュージシャン」である。もちろん両者のどちらにも良いミュージシャンと酷いミュージシャンがいるが、それぞれが作るサウンドには、こうしたバックグラウンドの差異が、紛れもない影響を及ぼしていると考えられる。
 この点で非常に興味深いのが、世界的な知名度を誇るノイズ・ミュージックのパイオニア、メルツバウこと秋田昌美のケースだろう。長年、自作のジャンクな電子機器を演奏に使ってきた秋田が、90年代末にラップトップにシフトした時には、大きな物議を醸した。その音楽性の根本的な変化さえ、期待と不安双方とともに予測されたのだが、結果としては、多くの点で、メルツバウはやはりメルツバウだったのだ。だが、すでに「ラップトップ以後」のメルツバウに影響された世代も出てきており、彼らにとっては「ラップトップ以前」は、ちょうど旧世代が「コンピューター音楽」に抱いていたのと同じような、ある種の神秘のヴェールに包まれてしまっている。

(3)
 少なくとも初期の一時期は、まぎれもない「世界商品」だったYMO以後、日本のポピュラー音楽は、何度となく国際市場への進出を試みた。しかし、その大半は、実際には「世界進出」というキャッチ・フレーズをドメスティックなプロモーションの為に利用しようとする、矛盾に満ちた姑息なものか、あるいは単に現実離れした夢を追ってみているだけのものであり、本気で「世界進出」を企図していたとは、到底言い難かった。
 その中で、必ずしも派手な形ではなかったにしても、より正確な意味で「世界進出」と呼べるような事態を実現してきたのは、国境を越えたインディペンデントなネットワークを持ったミュージシャンたちだった。少年ナイフやボアダムズに始まり、灰野敬二(不失者)、秋田昌美(メルツバウ)、ルインズ、大友良英と彼に続くインプロヴァイザーたち(Sachiko M、中村としまる、杉本拓etc...)などは、むしろ日本国内よりも海外のアンダーグラウンド・シーンにおいて、高い支持と人気を得ていると言える。また、よりポップな音楽スタイルでは、ピチカート・ファイヴとコーネリアスが、それぞれ海外でかなりの成功を収めた。
 これらの「世界進出組」には、幾つかの共通する点がある。日本の音楽が海外で成功しにくい理由として、マイナーな言語である日本語の問題があることは周知の事実だが、先のミュージシャンたちは、歌詞の要素がないか、英語で歌っているか、あるいはどこの言語にも属さない言葉を使用している(ボアダムズとルインズ)。また、海外から注目される要因として、欧米の音楽にはあまり見あたらない、ある種の極端さや過剰さ、形式的な特異性(奇形性?)を挙げることができる。常識では考えられないような楽器編成、耳を聾するほどの大音量、その反対のほとんど聴き取れないほどの微音、ほとんど音楽とは思われない奇怪きわまる音響、等々。とりわけ灰野や秋田のような存在は、欧米のリスナーからは神秘的にさえ映るであろうことは想像に難くない。ピチカート・ファイヴとコーネリアスの場合は、ポスト・モダン的なジャパニーズ・サブ・カルチャーの意匠を意図的に身にまとう戦略が、ことによると音楽性以上に話題を呼んだとも推測できる。ピチカートはポップ・バンドのフェイクとして、コーネリアスはテクノロジカルなギミックを駆使する小柄なジャップ・ウィザードとして、ルックスも込みの人気を獲得したわけである。
 ここには明らかに一種の(エドワード・サイードが言う意味での)オリエンタリズム的視線が作用しており、極端な見方をすれば、日本の音楽は、実のところいまだにユニバーサリティーには至っていないと言えるのかもしれない。極東の島国から来た、多かれ少なかれ、いささか奇妙な音楽家というレッテルが、よくもわるくも前提とされてしまっているからである。2001年に大友良英がキュレートし、イギリス各地を巡回してソールドアウトを連発した多数の日本人ミュージシャンによるツアーが「ジャパノラマ」と名付けられ、大友を含む即興演奏家たちを紹介するバイリンガルのウェブサイトがIMPROVISED MUSIC FROM JAPANと敢えて名乗らなければならないということが、オリエンタリズムと裏腹のものであることは、その素晴らしい成果とは別個に考えるべき問題だろう。
 だがしかし、ラップトップ・コンピューター以降の電子音楽は、ナショナリティやローカリティーとの関連がもともと希薄であるがゆえに、カッコ閉じの「日本」を冠さなくても、音だけで「世界」へと向き合うことができる。池田亮司や竹村延和、より若い高木正勝といったアーティストたちは、海外のレーベルからコンスタントに作品を発表し、世界各地で演奏を行っており、逆に日本での活動がワン・オブ・ゼムでしかないものになっている。彼らが「日本人」であることは、彼らが「音楽家」であることに較べれば、はるかに取るに足らない属性と言うべきだ。

(時事画報社が海外向けに発行しているフリーマガジン「JAPAN+」のため3回に分けて執筆したテキスト。掲載は英文)

Last Update : 2003/09/12