佐々木敦(サ)+坂上陽子(ノ)
サ:ノウエさんが冬野さほのことを知ったのは、やっぱり『ツインクル』で?
ノ:いや、そのちょっと前ですね。『ツインクル』にも収録されているんですけど、SIFTという音楽雑誌に掲載されていた「ルービックとキューブ」という作品群です。96年頃だったでしょうか。最初何なんだこれ、とか思って。
サ:なるほど〜。僕、『ツインクル』は発売当時に買ってたんだけど、なんでなのかよく覚えてないんですよ(笑)。当時それほど大きな話題になったわけでもなかったよね?。 僕はコミック雑誌をほぼまったく読まなくて、新しいマンガ家を知るのは圧倒的に書店で偶然発見してのことが多いから、表紙買いしたのかも。あんまりマンガの絵柄にこだわるタイプでもないんだけど、たしか当時はオトコがどうしたこうしたというような漫画がまだ全盛で、冬野さほみたいな、ああいう浮き世離れしたファンタジックな絵っていうのが新鮮に感じられたのかもしれない。同じ時期に鈴木志保の『船を建てる』にハマった覚えもあるから、そういうモード(?)だったのかも。
というわけで、僕の冬野さほ発見は、ほとんど偶然の産物なんだけど、ノウエさん的には、どういう所に「何なんだこれ」って思ったわけなんですか?
ノ:いや、すごく読みにくいんですよ(笑)。え、これ漫画?っていう。私もそんなにコミック雑誌を買う方でなかったので、話題になってるものだとか友達の口コミだとか店頭で見かけて面白そうなものを買うのですが、あんな読みにくい漫画を読んだのは当時初めてでそれが新鮮でした(笑)。線もまっすぐじゃないし、コマ割りとかもすごく自由度が高い。あんまり漫画の専門的知識がないので、表現しにくいのですがすらすら読める感じではないですよね。台詞も少ないから一コマ一コマを凝視して読んで…いや、読むというより本当に「見入る」といった方がいいかも…。
後、やはりそのファンタジー的世界観ですよね。ファンタジーといっても、別に妖精や魔法使いが出てきたりするわけじゃないんだけど、決して日本じゃない、何だか外国のお菓子の味がするというか。名前とか台詞とかだけじゃなくって、もうその世界観自体が。ああ、そういえば当時私も柴田元幸さんが訳しているようなアメリカ文学にはまっていたのですが、例えばカーヴァーだとかミルハウザーだとか彼らの箱庭的世界観と通ずるような所があって好きになったというのはあるかもしれません。「船を建てる」も当時読んでましたね。あれも今でも人生ベスト漫画に入るかも。
サ:けっして別世界ではなくて、むしろ誰もが記憶の底の方に知らず知らずに隠し持っている、ほんとうにあったことと想像の中の出来事がごっちゃになってるような、揺籃期の甘やかな感覚を、微妙に刺激してくるというか‥‥それでいてただ幸福なだけではなくて、むしろ酷薄さや傷みたいなものがあちこちに透けて見える。そういう意味では、画風はまったく違うんだけれども、高野文子の初期作品とかにも通じるものがあるかもしれない。「読みにくい」っていうことも似てるし。
そう、今度の作品集もそうだけれど、冬野さほに「読む」という言葉は似合わない。やっぱり「見る」、「見入る」という感じなんだよね。しかも『船を建てる』だと、他の鈴木志保の活動でもわかるように、グラフィック的な新しさへのベクトルって、かなり意識的に持ってると思うんだけど、冬野さほってもっと天然というか、デザイン的な見方に回収され切らない、不思議なアンバランス感があるんだよね。
ノ:そうですね。読んでいると視点が次々に移動して目が回りそう!! しかも高野文子がユリイカのインタビューで語っていたように、ここをこうしてこうって決してそれを狙っているわけじゃなさそうだし。もう目線が左右の運動だけでなく上下にも運動してさらには回転までしてしまうんですよね(笑)。絶対これは計算ではできないな、と。そういう天然ぽさっていうのは彼女がインタビューで好きなミュージシャンにあげていたダニエル・ジョンストンやパステルズに通じるような…。またそのアンバランスさっていうのはファンタジーだけど空は飛ばないっていうところや、少女漫画に近いんだけれども、読者は大人っていうような所にも現れているような気がします。
同じく天然というところでいえば、「こども」というものをテーマにしていても、決してよくある「無邪気さと残虐性を同時に描く」といったようなクリシェを使って評されるようなものに落とし込まないところとかも魅力のひとつですね。絵本のようにある意味作為的に物語を作っているわけでもない。テーマに「こども」を選んだというより、もう自分自身の表現に対して「こども」を選ばざるをえなかったというか。「こども」を扱うって、CMじゃないけどギリギリじゃないですか(笑)。
サ:ふ〜ん、ダニエル・ジョンストンの話は初めて知りました。彼もいわばずっと「こども」であり続けているひとなわけだけども、でも見てくれは四十代の肥ったオヤジであるわけじゃない(失礼)。冬野さほは噂ではとてもキュートな女性らしいんだけど、でもたぶん「こども」っぽくも「おとな」っぽくもないと思う。会ったことないから分からないですが(笑)。つまり彼女の作品は、よくある「こども」の視点を通して「おとな」の世界を描くというようなものではないし、「こども」のなかの「おとな」的なるものと「おとな」のなかの「こども」的なるものを対照させるようなものでもない。そういう自意識のドラマの転写みたいなものが微塵も感じられなくて、もっとある意味でブキミに(?)「こども」のカタチをした何かが蠢いている。それがまた異様に可愛いという(笑)。
ノ:そう「かわいい」んですよね〜。いや、この話いただいた時も、「冬野さほ?いかん、『かわいい』という一言で終わってしまう!!!」という危惧がずっとあって(笑)全く人を饒舌にさせない漫画というか。でも時たまはっとさせられるような言い回しがあるんですよね。例えば新作の「ちいさなスプーン」、ラーラちゃんがスプーンで砂糖や海やネコのしっぽやいろんなものをすくいとっていくんですけど、その最後が「あのね、みーんな ちがうあじ」ってところにものすごくぐっと来ました。後最後に収録されている「Do You Know Her?」とか。なんか甘くもなく苦くもなく、明るいわけでもなく、せつないわけでもなく、だからといって淡々としているわけじゃないその中間の気持ちを非常にうまく切り取るんですよね。それも「こども」というカタチなのかも。
サ:『まよなか』に収められた新作群で、より顕著になっていると思うんだけど、絵やコマ割りや台詞廻しとか全部引っくるめて、ほとんどアウトサイダー・アート的というか、アウトサイダー・コミック化している。そういえばダニエル・ジョンストンも一種のアウトサイダー・ミュージシャンであるわけですが。「おとな/こども」とか「ヘタ/ウマ」みたいな二項対立を擦り抜けてるだけじゃなくて、もっと枠外の、例外的な、奇形的な、マンガでもイラストでもアートでもないような「何か」に向かっているような感じさえする。
それでふと思いついたんですが、岡田史子〜高野文子〜冬野さほ、という系譜が考えられるのじゃないかな。「ガラス玉」等で知られる岡田史子は、60年代後期の伝説的なマンガ雑誌「COM」を代表するマンガ家で、初期の高野文子は、明らかにその影響下にあった。長らくほとんど幻の作家だったのが、90年代に入って、ずっと入手困難だった作品が二冊の作品集『岡田史子作品集1赤い蔓草』『岡田史子作品集2ほんのすこしの水』に纏められて、ちょっとしたリバイバル・ブームが起こった。冬野さほの「アウトサイダー・コミック」的なタッチや世界観には、ある意味では高野文子以上に、岡田史子の影を感じる。ちなみに、冬野さほのデビューは88年(いま気づいたけど若干18才でデビューしてるんだね!)で、高野文子が77年デビュー、岡田史子は67年デビューなんです。ちょうどほぼ十年ずつ離れている。
ノ:ああ、それは面白い捉え方かもしれませんね。以前高野文子も冬野さほの「CLOUDY WEDNESDAY」をカバーしてましたし。寡作という点でも共通しています。少女漫画という括りでとらえるならば、彼等は明らかにアウトサイダーでしょうね。例えば花の24年組以降という流れや岡崎京子以降といった流れに彼等は明らかに与していない。流れに組みしていないだけでなく、特に模倣されるわけでもなく彼女達以降といった流れができたわけでもない。まあ、あれは真似しようと思ってもなかなかできないでしょうが(笑)。これからこういう作家が増えてくるとは考えにくいし。明らかに周辺的存在でありながら、アート的側面やその文学性を重視して語ったりといった全くの別ジャンルに回収されるようなものでもない。やはりジャンルでいえばあくまで「漫画」という地平に落とし込むことはできるんだけれどでもやっぱり何か違う。常に外側にいるというか。SFタッチで日常を描く作家はたくさんいますが、彼女達はそれだけでなくもっと有機的にぐにゃっと曲がった独特の浮遊感という所で共通しているような気がします。日常や私達が住む世界を描いているんだけど、妙に現実感がないところとかも。
サ:いや、もう全然現実感ないでしょ!(笑)。『まよなか』なんて、読んでるというか見てるだけでも頭がクラクラしてくる。ある意味サイケデリックでさえあるというか。
しかし彼女はものすごい寡作ですね。ひとつひとつの作品に凝り方を見ると、それも仕方ないのかもと思うけれど、『ツインクル』が97年の刊行だから、今度のはなんと6年ぶりであるわけで、フツウだったら、それこそ岡田史子や高野文子がかつてそうだったように、もっと「幻のカルト作家」扱いされていても不思議じゃない。でも、そういうある意味で大袈裟な受け止め方も、彼女にはあんまり似合わないというか。
ノ:6年ぶり、しかも現在入手可能なものって、新作合わせてたった3冊しかないんですよね。廃刊になってるものもオークションでは5000円以上で取り引きされてるし。かといって早く新作が見たい、次々出してほしい、といった作家の成長を見守りたいというタイプでもない。それでいてなぜかこれほど「伝説の」とか「幻の」という言葉が似合わない人もいない。存在自体が敢えていうなれば「昨日見た夢」みたいにはっきり覚えているんだけれどもリアリティはなくて…ってあ、なんだか作品と全く通底してますね(笑)時々、松本大洋の作品も手伝っているようなので、あ、ここは彼女の絵かな、とかそういうマニアックな事まで私はしていますが(笑)。まあデビューが高野文子や岡田文子とは違ってマーガレットという少女漫画の王道みたいな雑誌だったという事もあるんでしょうね。でももう少女漫画でもガーリーカルチャーの一端といったものでもないですよね。それは収録作品のほとんどの初出が一般コミック誌でなくって、カルチャー誌ってところにも表れているかもしれませんが。乙女心(笑)はくすぐられるし、きっと読者も女の子が多いんでしょうが、むしろ私は男性の方に読んでいただきたいものです。
サ:さて、「饒舌にさせない」とかいいながらも、結構語ってしまいましたが(笑)、でもやっぱり冬野さほって非常に言葉で論じにくい、というか、あれこれ理屈をこねて論じたりすることのナンセンスさ、くだらなさを思い知らさせてくれるよね。次の作品集がいったい何年後になるのか見当もつかないけれど、きっとこのままの感じで、ずっと存在し続けていくんだろうな。というか、そうあってほしいよね。
(初出:クイックジャパン)