COLUMN/ESSAY

ビートとは何か?

 ビートって何なのか。そういえばバロウズも死んでしまったが、これでまたぞろ「ビートとはそもそも云々」と語ることができてご老人達もお慶びだろう。だがビートとはそもそもそんなものではない筈だ。ビートがケルアックであり、バロウズであり、ギンズバーグであり……といったことは百も承知のうえで、私はビートなるものを限りなく拡張して考えてみたいと思う。
 路上の、漂泊の、流浪の音楽。さすらいつつやさぐれつつだらしなくもたそがれていくことばとおと。あれもこれもビートなんだ、と思えばビートなんである。なぜなら、ビートとは生の人間性を追いつめることでアバンギャルドへと裏返るライフ・フォームのことだからだ……たとえば、アシッド・フォークと呼ばれもする分野にはビートが横溢している。他人がどう思うと知ったこっちゃない。オレはオレ。だが過剰な自我を発散することで他者を圧倒しようとすることとそれは違う。そこにはコミュニケーションへの渇望も拒絶も均しく存在しない。ただひとりきりでも何故かギター抱えて歌ってしまったがゆえに目の前に客がいたって全然構わないし時には気分がよかったりもするってことだ。名を挙げるならヤンデックだ。経歴不明、素性不明、実際の所どうやって活動しているのかも判然としないこの謎のシンガーソングライターは、とにかく膨大なディスコグラフィーを持っている。CDはまだ4枚目だが、それ以前に数え切れないようなアナログLPが存在していて、たぶん本人以外にすべて持ってる者はいまい。だが、それでいいのだ。限りなく弾けてない状態に近いと言われるギター・ワークと、深刻な鼻歌とでもいうべきヴォーカリゼーションが、えもいわれぬ脱力感を醸し出す。ジャケットには本人の写真(ボヤーッとした金髪の青年で、いつまでたっても年を取らない。ずっと同じ時期の写真を使ってるのかもしれない)か、近所と推測される路地の写真(どっちもピントがボヤけてる)が適当にあしらわれ、独自のムーディーな空気を蔓延させている。狂人というよりは廃人と呼びたくなるような徹底的に壊れたフォークなのだが、これこそがビートなのだ。歌う精神がそのまま共通言語から外れたポエジーになっているのだ。ボビー・ブラウンでもサンディ・ブルでもいい。ピーター・アイヴァースとかデビッド・ストウトンはもっと教育があるけれど心はビートだ。あるいはここにロビー・バショー(芭蕉!)を付け加えてもよい。60年代に活躍したこのギタリストは、ジョン・フェイヒイなどと同様、およそカテゴライズ不能のミスティックなギターを奏でるのだが、名前だけではなく多分カウンター・カルチャー的な理由で東洋思想(というかそんなニュアンス)が妙な形で影響を与えている。最近少しずつCD化されているがまだまだ謎だらけ。隙間だらけのワビサビなギターを聴いていると、その底に坑が開いて、奇怪な虫どもがわらわらと蠢いているのがわかる。そう、『裸のランチ』みたいに……その虫どもは一方で宇宙にも繋がっている。日本の大阪に住む宇宙人ジギー・アテムは自らの内にして外にある宇宙と交信し、ラジオのように音を発する。どれほどストレンジであろうと、そこには実はリアリティしかない。いま見えており聴こえているものを信じる信じないではなくとにかく表現していこうとする姿勢こそ、ビートニクの共通のスピリットであり、ならばジギーほどその精神に忠実な者はいまい……最後にもう少しマトモな人を挙げておけば、ずっと昔“ソフトマシーン”であったこともあるロバート・ワイアットのほんとうに久々の、まさか出るとは思わなかった新作アルバムが、円熟とか孤高とかいう以前に、彼が生きて歌っていてくれるだけで世界が維持されているかのような錯覚さえ催す、まろやかな凄みを湛えていて、これこそビートなのだ、と今更ながら呟きたくなるのだった……
(初出:「Flyer」)

Last Update : 2003/09/18