砂原良徳の電気脱退後の初プロデュース仕事(かどうかホントは知らないんだけど)であるACOのシングル/アルバムを聴き、いたく感銘を受けた耳で、今度は電気グルーヴのニュー・アルバムを聴いてみると、ここには、一種の明解な「引き算」が存在していると、おそらくは誰もが思うように、僕もつい思ってしまう。ほんとうは、そんな単純なことではなくて、以前だって「足し算」ではなかったのかもしれないし、「引き算」ではなく「割り算」か、もしかすると引いた後で何かを掛けたのかもしれないのだし。しかしともあれ、石野卓球は「まりんの不在」に、真っ向から対峙したアルバムを作り上げた。
石野卓球という音楽家は、言ってみれば動物的カンで動くコンセプチュアリストである。彼はいつも、ただ、やりたいようにやっているだけだと言うし、それは多分、韜晦や謙遜ではないだろう。何らかの戦略めいた方策を用いるとしても、それはむしろ「やりたいようにやる」ための戦略なのだった。しかし、そんな本能的なベクトルが、結果として産み落とすのは、あたかも綿密な計算を基にして、確信犯的にやってのけたものであるように見えるのだ。これが電気グルーヴの強みであり、ある意味では不幸だとも言っていいのかもしれない。「やりたいようにやった」さまが、あまりにも見事であるために、逆にそれに束縛されかねないからである。そこで石野が(これまた本能的に?)選んだのは、「責任を取らない」というやり方だった。電気グルーヴというユニットは、やりたいことをやりたいようにやり、だが、その都度確かな成果とコンセプチュアルな達成を成し遂げながら、自分達自身がそれに捕らわれないために、あえて意識的に「無責任」を行使して、あっさりと次へと進んできた。この「無責任」は、潔さと自信の別名でもあった。
だが、今度のアルバムを聴くと、ふたりになった電気グルーヴは、もしかするとほとんど初めて、ある「責任」を取ろうと思ってしまったのかもしれない、という気がしてならない。テクノ・ポップとテクノ・ミュージックを繋ぐ稀有な存在であった彼らは、まりんという過剰な要素を喪ったことを契機に、自らの音楽的&趣味的な核を掴み直そうとしたのではないか。その意味では、このアルバムは成功している。いかにも電気らしい、ヒネった笑いに満ちているにもかかわらず、これは明らかに生真面目な作品なのだと思う。