その端正な画力と、圧倒的なインパクトを誇るヴィジュアル的想像力とによって語られ、評価されることの多い伊藤潤二であるが、彼を凡百のホラー漫画家から隔てているのは 何よりもそのきわめて明晰な論理性であると、僕は思っている。
しかしその「論理性」は、かなり独特なものであって、普通に述べられるようなそれとは違っている。そしてそのことが、また伊藤潤二を独特な存在足らしめているわけだ。
コワい話というのは、構造的にいって、どうしても帰納法で発想され、語られる傾向が強い。サプライズ型の怪談や体験談は特にそうだが、コワさの核ともいうべきものをまず設定し、そしてそこにいかにしてたどり着くか、というのが、話者のテクニックの見せ所であるわけだ。当然、多くのホラー漫画もまた、基本的にはこのパターンが多い。しかし、伊藤潤二の作品は、必ずしもこれに当てはまらないのではないかと思うのだ。
たとえば、通常のホラー漫画というのは、読者がコワさの核の存在を知りつつ、その全面的な露出を心ひそかに期待しかつ恐れながら頁を繰り続け、次第にサスペンスが募っていったあげくに、期待通りに、あるいは、予想を適度に裏切る新鮮なかたちで、コワさの核がバーン!と迫り出してきてクライマックスとなる。あるいは、ある結末に向かっていくなかで、コワいことが大小さまざま連続して登場し、最後にもっともコワいオチが着いて終了となる。伊藤潤二の作品にも、こうした古典的な形式の作品はもちろんあるが、その本領は明らかに別にある。
彼の場合は、まず「奇想」が存在する。いかに突飛なアイデアを提出するかが、第一のポイントである。そしてその発想の多くは、往々にしてかなりナンセンスなものなのだ。ホラーの多くは、いかに現代的な体裁を取っていても、その内実は古くからある怪談のヴァージョン・アップであったり、あるいは、いわゆる「口裂け女」に代表されるような、一種の都市伝説的な風聞が基になっていたりする場合が多いのだが、伊藤潤二においては、そのアダプテーションのありかたがひどくネジれているのだ。ホラー漫画の大半は、たとえニューウエーヴを気取っていたとしても、実際にはかなり保守的なアイデアが多い。作者はあくまでも、読者が安心してコワがることのできる範囲での、創意と工夫を強いられる。しかし伊藤潤二の作品には、あまりにも突拍子がなさすぎて、読む者を唖然とさせてしまうような「奇想」が溢れているのだ。
自分の顔をした気球が襲ってくる「首吊り気球」や、自宅の排水管の中にひとりの人間が入り込む「うめく配水管」は、アイデアは紛れもなく新しいが、まだしもコワさの範疇のなかにある。しかしたとえば、化け物としか思えない容貌のモデルが、実はやはり化け物だったという「ファッションモデル」や、誰もが知っている言い伝えから出発しながら、まったく意外な方向へとエスカレートしていく「赤い糸」といった短編は、コワいというよりも、完全にナンセンスである。それは確かにコワいが、同時にひどく笑えるのだ。「怪奇ひきずり兄弟」や「恐怖の双一」といったシリーズになると、ホラーの典型パターンそれ自体がパロディ化されている。「双一シリーズ」の「布製教師」や「棺桶」といった作品は、人間になりかわる人形、死者の復活といったベタなネタを使い回しつつ、先の展開がほとんど予測できない、ユニークな「奇想」に満ちた傑作である。
伊藤潤二はおそらく、たとえ卓抜な作品のアイデアを得たとしても、それをもって良しとはしないのだろう。彼の場合、まずそれを出発点に、いかにそこから逸脱し、思いがけぬ方向へと話を運んで行けるか、そこに腐心しているのだ。それゆえに、彼の作品は絶対に予定調和的な結末を迎えない。物語はきっちりと丁寧に連なっていくのだが、ふと気がついて見ると、まるで予想だにしなかった事態へと立ち至っているのである。長編『死びとの恋わずらい』について、伊藤自身が「先のことは何も考えていなかった」と述べている。作者自身が考えていなかったのに、読者に結末を予想することなど不可能だろう。だが物語が終わってみると、それは無理なく繋がっているのである。
最初に述べた「論理性」とは、このようなことである。単なる思いつきやデタラメとは違った、説得的な筋運びを保ちつつ、いったいどこまで「ホラー」を踏み外せるか? この意味で伊藤潤二の作品は、いわば「メタ・ホラー」だといってもいいかもしれない。現在、継続中の連作『うずまき』は、「うずまき」というカタチだけをモチーフに、「奇想」のヴァリエーションを徹底的に駆使した、集大成的な作品である。伊藤潤二の後では、ホラー漫画を書くのは、一層困難なことになるだろう。 このままいくと、彼が「コワいとはどういうことか?」を、掘り尽くしてしまうであろうからだ。
(別冊宝島のコミック特集に執筆したもの)