UA作詞作曲による曲「閃光」には、複数のヴァージョンが存在している。シングルとして発表されたヴァージョンは、レイ・ハラカミによるミニマルでエレクトロニックなプロダクションであり、アルバム『泥棒』には、ASA-CHANGのプロデュースによるパーカッション主体のヴァージョンが収録されている。そして『水の女』のサウンドトラック・アルバムには、名越ゆきおのアコースティック・ギターのみのバッキングによるヴァージョンと、生バンド編成によるヴァージョンの2曲が収められている。
これらのすべてを聴いてみると、あらためてUAというシンガーの揺るぎのない個性と魅力に驚かされる。彼女の声は、それぞれのヴァージョンによって大きく異なったアレンジに応じて、その都度、繊細に表情を変えながらも、常に最後の一線で、けっして演奏にサウンドの主導権を明け渡してしまうことはなく、ひたすらUAがUAであるということを強調し続けるのだ。
音楽のタイプにしたがってカメレオンのように変化してみせる、あまたの小器用な歌い手とは完全に一線を画しながらも、しかしただ頑固に自分を主張するだけではなく、寄り添う音との交感をデリケートに歌に反映させていく‥‥‥そこには強さと優しさとが相矛盾することなく共存しており、ひとりのミュージシャンとしての、ひとりの表現者としての、ひとりの女性としての、ひとりの人間としての、UAのスケールの途方もない大きさと、ささやかなディテールへの感応=官能の鋭さとを同時に感じ取ることができる。
『水の女』を見て、女優=UAについても、まったく同じことが言えると思った。彼女の存在感は、映画の中で常に非常に強烈なインパクトを放っているが、かといってそれはひとり画面から浮き出してしまうような類いのものではなく、浅野忠信をはじめとする共演者たちや、彼女を包み込むさまざまな風景(とりわけ全編に溢れる雨、雨、雨!)と、やわらかく溶け合って、美しいアンサンブルを奏でている。彼女の演技はとても主演第一作とは思えないほど確かなものだが、しかし真に驚くべきなのは、やはりその不思議な佇まいの方だろう。
われわれは、音楽の世界において、UAを際立たせていたものが、今後は映画の世界においても、ごく自然に発揮されていくことだろうと、ある確信と期待をもって断言することができる。だが、かといってUAは、けっして「女優」にはなりはしないだろう。「女優」は何者かに扮することが必要とされるが、UAはUAであり、UAであるということの自己同一性の内に、無限の複数性と多様性を抱えているのだからだ。その意味で彼女を起用した杉森秀則監督は、ある意味では一種の賭けに出たと言えるのかもしれない。そして、その結果は見てのとおりである。同じコンビによる次回作を早くも待ち望んでしまうのは、私だけではないだろう。
ところで、『水の女』のオリジナル・サウンドトラックは、管野ようこが手掛けている。映画やCM、ゲームやアニメといった幅広い分野で活躍しつつ、坂本真綾などのプロデューサーとしても知られる管野が、この作品のために採用したのは、ストリングス・カルテットを基本とするクラシカルなサウンドだった。もっとも、それはバッハやベートーヴェンの楽曲と彼女自身の作品に混じって、高田みどりのアフリカン・パーカッションや管野がレコーディング・スタジオで振り回したゴムホースの旋回音(!)なども聴こえてくる、実にユニークなものなのだが。
どちらかといえばゴージャスで作り込んだサウンドを得意とする管野と、シンガーとしては、ほぼ一貫してインティメイトな音作りを行ってきたUAという組み合わせには、興味をそそられたものだが、もちろん今回は歌手としてのUAということではないにせよ、想像以上に、しっくりといっているという印象を受けた。場面によっては、被写体としてのUAと、画面に溢れる水=雨と、管野の音楽とが、すこぶるリリカルな対位法となって、こちらに迫ってくる。管野ようこと杉森監督とはCMなどで何度となくタッグを組んできた旧知の間柄だそうだが、そうした信頼感とお互いへの理解が、UAという存在をめぐっても、遺憾なく発揮されている。
最後にもうひとつだけ触れてきたいのは、挿入曲として流れるちあきなおみの1969年のデビュー曲「雨に濡れた慕情」のことだ。題名からして、この映画にふさわしい、このエモーショナルな名曲の、UAによるカヴァー・ヴァージョンを映画の中で聴いてみたかったといったら、ないものねだりだろうか?
(初出:『水の女』パンフレット)