90年代以降のフリー・インプロヴィゼーションが直面してきた問題は、簡潔に述べれば、次のひとつの問いに集約される。すなわち、いかにして演奏しないか?
その前段階として、(かつてベイリーが予告したように)イディオマティックとノン・イディオマティックとの果てなき循環、闘争の歴史があった。イディオムとは弾かれる傍から形成されてゆくものである。ある時誰かが(ことによると偶然に?)鳴らした一音は、その場でイディオムになる。次にその誰かが、あるいは別の誰かが、その一音の記憶を踏まえて鳴らす一音は、もちろん常に別の音ではあっても、イディオムとの関係性、アーカイヴへの参照系を抜きにしては、もはや成立し得ない。このアポリアから逃れるのは、原理的に不可能だが、それゆえに(過去に蓄えてきた奥義に胡座をかくグルたちはともかく)自覚的なフリー・インプロヴァイザーはやみくもに、非楽曲的な構成と、非楽音的な音色へのベクトルを、いや増していくことになった。そして、その先にあったのが、いかに弾かないか、という次元、更にそこを越えて、いかに音を発さないか、響きを生じさせないか、いかに沈黙に価値を担わせるか、という次元だったわけである。
だがしかし、当然ながらここには、論理的な(そしておそらく倫理的でもある)罠がある。フリー・インプロヴィゼーションに限らずとも、音楽という営みが、音を提供する側の意志と、音を受け取る側の意志との暗黙の了解によって成立し得るものである以上、先の問いの導入は、最終的には必ず、ケージのあの神聖なる273秒へと舞い戻ることになってしまうからだ。それはもしかしたらユートピアの実現であるのかもしれないが、確実に言えることは、その時、演奏家は存在しなくなる、ということである。
したがって現在の、そして未来のフリー・インプロヴィゼーションが、自らに問いかけるべきなのは、「いかにして演奏しないか?」という問いの重要さと切実さを十分に噛みしめながらも、しかし、いかにしてそれをふたたび、聞こえる音(audible sound)へと反転させ接続させていくか、ということである筈だ。絶対的な沈黙が持つ強度をも兼ね備えた、可聴範囲内での不可能な試みが、いま求められている。
私にとってアーストホワイルは、このような困難な試行に敢えて対峙しようとする、勇猛かつ誠実なフリー・インプロヴィゼーションのコレクティヴである。