1。
彼女のCDを見付け出すまでに、随分と苦労した。信頼する複数の知人が薦めているのを知り、どうしても聴いてみたくなったのだ。ようやく入手したアルバム(大型レコード店の、よく似た名前の別のアーティストの棚に混ざっていた)は、漆黒のジャケットに包まれており、彼女の姿はどこにもない。実に簡素で、ほとんど無愛想とさえ言えるようないでたちだったのだが、さっそく音を聴いてみて、その理由がわかった。彼女の音楽は、ピアノと声とで表現されている以外のものをまったく必要としていなかった。それはそれだけで、完全に充足したものだったのだ。本人自身の映像でさえ、その美しい音楽にとっては余計な要素なのだった。
浜田真理子というひとは、ある意味でオーソドックスなシンガー・ソング・ライターであると思う。そこには驚くほどに飾り気がない。ギミックという言葉と彼女は完全に無縁だ。すでにそこにある音を、それ以外の、それ以上の何かに転化させようというような意思は、ここにはかけらもない。それはまるで、ある偶然や幸運以外の手段によって、未知の誰かに聴かれることを、望んでいないかのようだ。そのような慎ましさは、ともすれば強硬なストイシズムに映りかねないものだが、彼女の場合に限って言えば、そんなこともない。彼女の歌は、とても率直で清々しい。歌いたいから歌い、歌うことができたから歌われた歌が残っていく。そんな単純きわまりない事実が、あるかけがえのない、恩寵のようなものとして、聴く者の許へと届けられる。
彼女の歌声と音楽は、時代性を超越している。全て英語で歌われているこのアルバムを人に聴かせて、たとえば70年代のアメリカのアーティストだと言ったら、信じる者の方が多いに違いない。しかし彼女はまぎれもなく1999年の、日本のシンガーなのである。今もって、浜田真理子がどんな女性なのか、僕はほとんど知らないままでいる。それは幸運にも彼女の歌声に触れることが出来た者の多くにとっても同じだろう。だが、少なくとも彼女の音楽が、ただそれだけでひとを深く感動させるということは確かだ。浜田真理子という存在は、「眠れる森の美女」に似ていると思う。
2。『あなたへ』(美音堂)
最初に出会ってから(とはいっても僕はまだ一度も彼女と実際に会ったことはないのだが)3年足らず、浜田真理子をめぐる状況は劇的に変化した。
いや、こうしてセカンド・アルバムが発表されるに至る経緯は、現象面だけを追えば、一種のシンデレラ・ストーリーと呼んでいいものなのかもしれないのだが、しかしそれはやはり、劇的、というような表現とはどうも直線的には結びつかない。もっと穏やかでさりげない、彼女の声と歌に魅せられた者たちの想いの静かな重なり合いが、結果として、今の状況を準備することになったのだと思えるからだ。そして、そんな彼女をめぐる世界の佇まいは、他ならぬ彼女の音楽の表情と、とてもよく似ていると思う。
このセカンド・アルバムが、前作と大きく異なるのは、言うまでもなく、全曲、日本語で歌われている、ということだ。そのことは以前から予告されていたし、先行シングルの『純愛』で、続くアルバムの内容を推し量ることはできた。だが、アルバムの音を貰って一聴した時、僕は浜田真理子というシンガーについて自分が抱いていた了解が、まったくもって浅かったということを、震えるほどの感動と一緒に、思い知らされたのだった。
僕は、こんな声で、こんな歌い方で、こんな風に日本語を歌えるひとを、これまで一度も聴いたことがなかった。限りなくシンプルな音楽でありながら、ここには途方もなく豊かで大きなものがある。すぐ傍らで歌ってくれているような親密さと、歌ということの根本を支える神秘的な何か、とが、同時に存在している。前作が英語で歌われていても日本的な叙情を含んでいたように、このアルバムは日本語で歌われていながら、むしろそのことによって、世界へと開かれた作品になっていると思う。彼女の歌声には、すべての人間を優しく包み込むナースフルな視線と、それを可能にする勇気と力強さがある。
一言でいえば、このアルバムは日本の音楽史に残る、不世出の傑作である。大袈裟に言うのではなく、これはまぎれもない奇跡なのだ。
3。ライヴ・アルバム
わたしは、その時、その場にいた。
その時、とは、2002年11月9日日曜日の午後7時過ぎから9時頃にかけての、ひとつながりの時間、のことであり、その場、とは、東京渋谷の文化村シアターコクーンという劇場のことだ。
確かに、わたしは、その時、そこにいた。
その時、その場で、彼女はピアノを弾きながら、歌をうたった。わたしは、わたしたちは、その歌声にひたすら耳を澄まし、その姿を見つめ続けた。
彼女とは、浜田真理子という名前を持つ、ひとりの女性のことであり、その時間と空間は、彼女のソロ・コンサートだった。
いま、ここに、その時、その場が、ふたたび存在している。
ライヴ・アルバムというものは、それが、ある時、ある場所で行われた演奏のドキュメントであり、しかもそのことが聴く者に対して、多くの場合、はっきりと示されていることによって、おそらくは普通のレコード以上に、歴史や記憶にかかわること、つまり「かつて、それは、おこった」という意味を、強く帯びてしまうものなのではないかと思う。つまり、そこにあるのは非常に強い過去形であり、われわれは、その場に居合わせた者であれ、そうでない者であれ、そこに封じ込まれた時間と空間、そして出来事としての音楽を、あるまぎれもないノスタルジーを込めて聴くことになるのである。
だがしかし、ここにあるのは、そういったそれなりに甘やかで切ない懐旧の対象としての音ではない。
その時、その場を、ほぼまるごと収めるという、なんとも無造作な、だが明らかに作り手側の意志と決意を深く感じさせる、実のところライヴ・アルバムとしては例外に属する方法によって、あの一度きりのコンサートが、そっくりそのまま再現されている、ということだけではなく、何よりも、浜田真理子の歌の途方もない存在感によって、まるで彼女がいま、ここにいるかのような錯覚、いや、確信を、われわれは抱くことになる。
だから、あなたが、その時、その場にいたのかどうかは、まったく問題ではない。
彼女は、浜田真理子は、いま、ここで、歌っている。
このアルバムを聴く歓びを表すには、奇跡という言葉でさえ、まるで足りない。