REVIEW/COMMENT

映画『菊次郎の夏』

 コメディアンとしてのビートたけしと、映画監督としての北野武。彼のことを語る際には、常にこの二項対立が付きまとってきた。映画を撮り始めてから、テレビでは相変わらずでも、監督としてはシリアスな作家路線を歩むという形で進んできて、『HANA-BI』で決定的な国際的評価を得ることによって世間的なイメージが逆転してしまうまでは、映画監督としての顔は、コメディアンとしての顔の陰に隠れていたといっていい。作品の上でも、テレビのコントでビートたけしが「大監督」を演じるといったパロディ的なものはあっても、基本的にふたりの「たけし=武」のあいだにははっきりとした距離があった。唯一の例外だったのが『みんな〜やってるか!』だが、テレビでやっているようなギャグをそのまま映画にしようとした北野武の野心は、完全に成功していたとは言い難い。
 しかし、ようやくビートたけしの「お笑い」のセンスと、北野監督の「映画」作家としての才能が、見事なバランスで溶け合った作品が生まれた。『菊次郎の夏』は、ビートたけしと北野武が同一人物であるという、当り前ではあるがはっきりとは証明されてこなかった事実を、あらためて深く納得させてくれる一本なのである。 お話は驚くほどに単純だ。東京の下町に、祖母とふたりぐらしの小学生の男の子がいる。父親は早く亡くなり、母親はというと、祖母の説明では「遠くに働きに出ている」という。少年は母親のことをまったく覚えていない。ある日、ひょんなことから母親の若い頃の写真を見つけた彼は、愛知県の豊橋に住んでいるというまだ見ぬ母親に、夏休みを利用して会いにいこうと思い立つ。しかし祖母にも言い出せず、お金もない。でも、どうしても母に会いたいのだ。どうしようかと悩んでいると、思わぬ助け船が出される。祖母の知り合いの女性(『HANA-BI』での岸本佳代子が演じている)が、ロクに働いていないチンピラの良人に、彼を母親の所まで連れていかせてくれるというのだ。もちろん、その男を演じているのがビートたけしである。かくてひとりの少年と、どうしようもなくだらしない中年男との、ふたりの旅が始まる……。
 映画は二人が豊橋までたどり着き、母親を見付け出し、そこである出来事があって、また東京に帰ってくるまでを描いている。しかし、おそらくこの映画で重要なのは、こうしたストーリーの枠組なのではない。旅の最初から、競輪場で預かった移動資金をすぐさまスッてしまうような男と、無垢な明るさの裏に母親への慕情を隠した少年が、旅の先々で遭遇する、小さなエピソードの数々、珍道中のディテールこそが、監督北野武が描きたかったものだろう。それらのほとんどは、ヒッチハイクに失敗したり、成功したり、他人の畑から食物を盗んだり、ホテルでトラブルを起こしたり、タクシーを盗んだり、慌てて逃げたり、全力で走ったり、とぼとぼ歩いたり、泳いだり、泳げなかったり、などといった、ごく他愛ないものばかりだ。だが、そうした挿話の積み重ねのなかで、ロコツな感じではなく、ダメな中年男とダメ予備群(?)の少年との絆が少しずつ編み上げられていくさまは、やはり感動的というほかない。
 映画の後半、二人はバイカーの青年たち(グレート義太夫と井出らっきょが好演)と出会い、数日を共にするのだが、のんびりと、西瓜割りやだるまさんがころんだといった昔ながらの遊びに興じるこのシークエンスは、あの『ソナチネ』の石垣島のシーン以来の、からっぽなのに充実した「時間」を描いた素晴しいものだと思う。そこにはビートたけし的な珍妙なギャグのセンスが溢れているのだが、まったく無理がなく、とても自然なのだ。監督北野武は、ビートたけしの「お笑い」が、彼自身の幼年期の記憶に根差しているのだということを、この映画で示してみせたかったのではないだろうか。
(初出:装苑)

Last Update : 2003/11/04