もう15年以上も昔の話になるのだが、塩田明彦の8ミリ映画『優しい娘』と『ファララ』を見て、僕はたいそう感銘を受けたものである。彼は当時、あの黒沢清を中心とする立教大学の映画サークルを母体とするグループで活躍していたが、黒沢監督の次にメジャーの映画監督に進出(?)するのは、きっと彼だろうと思っていたものである。しかし彼は、その後、プロの脚本家に転向し、長らく自分の作品を監督することがなかった。僕は彼の映画のファンだったので、脚本家としての堅実な仕事ぶりを知りながら、何だか残念な気もしていたのである。
そんな塩田明彦が、ようやく劇場公開作品のメガホンを取った。それも二本が相次いで公開されるということだ。しかも、最初の『月光の囁き』は、喜国雅彦の同名コミックの映画化である。キクニ・ファンでもある僕は、この顔合わせには正直、心踊るものがあった。この作品は、マゾヒストであることを自覚した高校生の男子と、彼が愛するノーマルな女生徒との関係の変遷を描いた、いわば「禁断の」ラヴストーリーである。マンガで谷崎潤一郎的世界を完璧に描き切ったキクニの原作を、塩田監督はほぼ忠実に映像化している。変態と蔑まれながらも愛することを辞め(られ)ない主人公と、その愛から逃れようとして別の恋人とのセックスを彼に見せつけるヒロイン。物語の展開そのものは、後半に向かうに従って、どんどんエスカレートし、相当にディープになっていくのだが、原作同様、映画の舞台に選ばれた高松という土地柄が持つ、どこかのんびりとした雰囲気(方言もいい味を出している)と、安易なドラマチックさを極力、避けようとする塩田監督の抑えた演出(原作よりも敢えて淡泊に作っている部分も感じられる)、そして主人公を演じた水橋研二のソフトな存在感とによって、一種、奇妙な清々しさを湛えた、牧歌的な青春映画となっている。
もう一本の『どこまでもゆこう』は、塩田監督自身も講師を務める「映画美学校」の生徒達をスタッフに起用して撮られた作品である。10才の悪ガキ少年二人組を中心に、郊外のニュータウンに住む小学生たちの世界を描いている。他愛ないイタズラを繰り返したり、ケンカしたり、優等生の少女にほのかな慕情を抱いたりしながら、彼らの日々は過ぎていく。縦糸になるようなストーリーは特になく、小さなエピソードが数珠つなぎになって、75分間が流れていく。最後の方に至ってから、幾つか畳み掛けるように「事件」があって、それらに彼らがどう対処したか、ということを示したところで、この映画は終わる。しかし僕の印象では、あくまでも映画の根幹は小学生の日常であって、オーディションで選ばれたといういずれも映画初出演の小学生たちの「現在」をどう映し取るかが、塩田監督の狙いだったのではないかと思った。実際、子供たちの演技は素晴しい。妙に子供らしく“いきいき”し過ぎていない所がかえって良いのだ。
二本を見終わって感じたことは、塩田監督は、8ミリ時代から驚くほどに変わっていなかった、ということである。『ファララ』の時点ですでに完成されていた、どちらかというと厳格なカメラワークをしながら、そうとは感じさせない「余白」を活かした画面作りや、シーンごとにたゆたうような時間感覚が流れているところなど、空間的にも時間的にもゆったりとした「間」を重んじる演出ぶりは、どちらの映画からも如実に感じられるし、樹木や草、芝生などといった、淡い「緑色」が配された場面がとても良いところも、8ミリ作品と同じだ。いや、こんな書き方をすると、まるで進歩していないみたいに受け取られてしまうかもしれないが、もちろんそうではない。この二作はまぎれもないプロの映画である。そして、そのことを僕は心から喜んでいるのだ。
(初出:装苑)