音楽からはなれる/音楽でないもの/音楽がないこと/これはどういうことだろう?
耳に、指に、たずねながらさまよっていく/それが音楽のまがりくねった道/
from "ATAK002" by keiichiro shibuya + yuji takahashi
1973年生まれの作曲家、渋谷慶一郎は、アカデミックな現代音楽の分野から出発しつつも(彼は東京芸大卒である)、その(まぎれもない)閉域からさまざまな意味で逸脱するような野心的な活動を、ここ数年に渡って継続してきた。そのひとつの結節点として、彼は2002年にレーベルATAKを設立し、その最初のプロジェクトとして、モデル/DJのマリアとのラップトップ・デュオ、slipped diskとしてCD"ATAK001"をリリースした。
この作品のリリース時に筆者によって行われたslipped diskへのインタビューの中で、渋谷は以下のように語っていた(記事は「エスクァイア日本版」に掲載。しかし以下の発言の引用部分は本稿が初出)。
「ラップトップ以前にアコースティックでやっていた時、現代音楽は終わった、ミニマルまで行って終わったとか言われてしばらく後に、演奏する手から考えるというムーヴメントが出てきたんですよ、僕が大学にいたときに。高橋悠治さんなんかがそうなんだけど。でも、当然惰性になっていくわけですよ。それは高橋悠治さんがそうというよりも、そこから出てきた亜流の作品なんかを見てると、ほとんど何でもいんじゃないかという、ケージ以前っていうか、ケージぐらいまで戻っちゃう、即興で自発性があったら何でもいいというところまで戻ってて、でもそれは手にこだわっているっていうんだけど、音楽的な結果としては全然ダメだなって思った。その後で興味が移ったのは、サウンドファイルをどこまで煮詰めるかっていうのは、言ってみれば手でどういう音色を発音するかっていうアプローチと近いわけなんだけど、もっと格段に厳密性があるというか、やることがある。やることがない状態からやることがある状態に、オーディオが扱えるようになって完全にシフトしたから、これは相当面白いと思ったんですね。それ以前のアコースティックなものっていうのは、このままでずっと行ける筈がないという確固たる決意があって、MIDIが嫌いだったっていうこともあるんですけど、打ち込みと生っていうのでどこまでも行けるはずがないから、一回ちょっと全部撤収して、コンピュータも買えるようになったし、完全にオーディオベースの、今までの音符をどう構築するかっていう複雑性から、音をどうつくるかっていうところにシフトしよう、っていうのに何年かかかった」
"ATAK001"は、一切の情緒的、感情的、人間的要素を徹底的に排除した、無機質でマシニックな電子音響作品である。と同時に、そこには、ハウス〜テクノ以降のエレクトロニックなダンス・ミュージックが、ある時間的経緯の中で編み上げてきたビート/グルーヴの「記憶=歴史」が、アンビヴァレントな(批判的な)形で反映されてもいる。
私見では、そこでは「ビート/グルーヴ」の追求が、とかく陥りがちな、慣習的な(そして、そのことによって実は甚だ「観念的」でもある?)身体的快楽への回収に対する、おそらくは意識的な拒絶の身ぶりが稼動している。つまり、「ダンス・ミュージック」を「踊(れ)ること」からいかに切断するか、という、極めてパラドキシカルな興味深い命題が、そこには存在している。この命題は明らかに、前述のゴームや、あるいはトマス・ブリンクマン(そしてその背後に隠れたリッチー・ホウティンの?)のようなアーティストたちと共通するものだと言えるだろう(すぐさま付言しておくが、この「切断」は、しかし「廃棄」や「無視」とは無論まったく違う。ここでの論述とは主題が異なるので、これ以上は立ち入らないが、筆者が危惧するのは、「踊(れ)ること」=身体的快楽を過剰に目的化=護符化することが、時として最悪の保守性へと転化しかねない、ということである)。
そこにはまた同時に、ラップトップ・コンピューターと、幾つかの画期的な音楽ソフトウェアの出現(より正確には一般化)以後の流動的かつ拡散的な音楽制作環境において、「音楽」の作り手=提供者が最低限維持すべき論理と倫理の獲得を模索する戦略が仄見えていた。そして、それはもちろん、高橋悠治が長年「テクノロジー」に対して採ってきた批判的スタンスと繋がっている。
このことは、渋谷が"ATAK001"に続くリリースとして、他ならぬ高橋悠治とのコラボレーション作品を発表したことで、更に強固に証明されることとなった。"ATAK002"はライヴ・パフォーマンスを元にしたものとはいえ、渋谷による周到で精緻なポスト・プロダクションが全面的に加えられており、単なる一回的な演奏の記録盤とはまったく別次元の、刺激的なオーディオ作品となっている(本誌前号に両者のインタビュー記事が掲載されているのでご参照願いたい)。
注目すべきは、この作品が高橋悠治にとって、コンピューター・ミュージックへの本格的な復帰を告げるものであるということである。高橋はかつて、のちに「音楽の反方法論序説」として纏められる長大なテキスト(現在はウェブ上の「青空文庫」でダウンロード可能。http://www.aozora.gr.jp/cards/000059/card374.html)の、彼自身によって一度は「最後のコンピューター作品」だとされた「翳り I〜VII コンピュータ音楽演奏システムのために」(93年)に言及した章(初出は「季刊INTERCOMMUNICATION」94年春号)の中で、以下のように書いていた。
コンピュータ・プログラムでは、どこかにかならず、ランダム変数がはいってくるが、乱数を発生させる式にはそれぞれの顔があり、使っているうちに、水に落したインクが水を染めていくように、全体として平均化されてくる。
このような「汚染」を避け、非予知性をたもつために、多重化・複合化、平均値や限界値を変える、といったくふうをしても、いつかは定常化への傾向が再帰する。
(コンピュータ・チップが固有のパルス発振のためではなく、自然音や楽器の擬態を演技させられているから、こうした問題が起こるのかもしれない。音のイメージから出発するのをやめて、チップを組み合わせて外部から刺激をあたえるだけなら、それらに固有のふるまいによって、人間的美学からは自由な音楽が生まれるかもしれない。1960年代アメリカのライブ・エレクトロニクがアナログ回路でつくりだしていた思い入れのない音響を
デジタルでも、だれかがやっているのかもしれないが。もっとも、デジタルではDSPとして、アナログ回路からの入力と組み合わせることしかできないかもしれない。)
「音楽の反方法論序説9/コンピュータ音楽 その1」(カッコ閉じは原文ママ)
前半部分は、前出の「数の楽器」「音楽とテクノロジー」とも共通する指摘だが、メモランダム的に書き留められた後半は、現在の視点から見ると、非常に示唆的である。既に触れたように、また上記の渋谷発言にも伺えるように、高橋はこのあと「水牛楽団」の活動に代表されるような、ありうべき「人間(性)」を規定/疎外する「テクノロジー」への反省的視点から「演奏する手から考える」ことへと向かったのだが、ここでは一方で、たとえ夢想的、SF的なものであれ(そしておそらくは反語的な意味合いも持つものではあれ)はっきりと「人間的美学からは自由な音楽」の可能性が述べられていたのだった。
ところでしかし、それからけっして短くはない歳月が流れた2001年には、高橋はこう書いている。
コンピュータ・ミュージックは、コンピュータでどんな音を出してもいい、というわけにはいかない。コンピュータ・ミュージックというスタイルにあてはまるものだけを演じなければいけないのです。だれがつくっても、あ、コンピュータだ、とすぐわかることがだいじ。
「書きかけのノート(2001.9)」
もちろん、これはアイロニカルな文脈で書かれている。だが、だとするならば、そこでは「人間的美学からは自由な音楽」でありながら、しかし「コンピュータ・ミュージックというスタイルにあてはまるもの」からも逃れること、という、きわめて困難な問題提起が為されていることになりはしまいか。
「人間」が「コンピューター(=テクノロジー)」を用いて創り出すものであるにもかかわらず、「人間」にも「テクノロジー」にも属さない「音楽=表現」?音楽からはなれる/音楽でないもの/音楽がないこと/これはどういうことだろう?
耳に、指に、たずねながらさまよっていく/それが音楽のまがりくねった道/
from "ATAK002" by keiichiro shibuya + yuji takahashi
1973年生まれの作曲家、渋谷慶一郎は、アカデミックな現代音楽の分野から出発しつつも(彼は東京芸大卒である)、その(まぎれもない)閉域からさまざまな意味で逸脱するような野心的な活動を、ここ数年に渡って継続してきた。そのひとつの結節点として、彼は2002年にレーベルATAKを設立し、その最初のプロジェクトとして、モデル/DJのマリアとのラップトップ・デュオ、slipped diskとしてCD"ATAK001"をリリースした。
この作品のリリース時に筆者によって行われたslipped diskへのインタビューの中で、渋谷は以下のように語っていた(記事は「エスクァイア日本版」に掲載。しかし以下の発言の引用部分は本稿が初出)。
「ラップトップ以前にアコースティックでやっていた時、現代音楽は終わった、ミニマルまで行って終わったとか言われてしばらく後に、演奏する手から考えるというムーヴメントが出てきたんですよ、僕が大学にいたときに。高橋悠治さんなんかがそうなんだけど。でも、当然惰性になっていくわけですよ。それは高橋悠治さんがそうというよりも、そこから出てきた亜流の作品なんかを見てると、ほとんど何でもいんじゃないかという、ケージ以前っていうか、ケージぐらいまで戻っちゃう、即興で自発性があったら何でもいいというところまで戻ってて、でもそれは手にこだわっているっていうんだけど、音楽的な結果としては全然ダメだなって思った。その後で興味が移ったのは、サウンドファイルをどこまで煮詰めるかっていうのは、言ってみれば手でどういう音色を発音するかっていうアプローチと近いわけなんだけど、もっと格段に厳密性があるというか、やることがある。やることがない状態からやることがある状態に、オーディオが扱えるようになって完全にシフトしたから、これは相当面白いと思ったんですね。それ以前のアコースティックなものっていうのは、このままでずっと行ける筈がないという確固たる決意があって、MIDIが嫌いだったっていうこともあるんですけど、打ち込みと生っていうのでどこまでも行けるはずがないから、一回ちょっと全部撤収して、コンピュータも買えるようになったし、完全にオーディオベースの、今までの音符をどう構築するかっていう複雑性から、音をどうつくるかっていうところにシフトしよう、っていうのに何年かかかった」
"ATAK001"は、一切の情緒的、感情的、人間的要素を徹底的に排除した、無機質でマシニックな電子音響作品である。と同時に、そこには、ハウス〜テクノ以降のエレクトロニックなダンス・ミュージックが、ある時間的経緯の中で編み上げてきたビート/グルーヴの「記憶=歴史」が、アンビヴァレントな(批判的な)形で反映されてもいる。
私見では、そこでは「ビート/グルーヴ」の追求が、とかく陥りがちな、慣習的な(そして、そのことによって実は甚だ「観念的」でもある?)身体的快楽への回収に対する、おそらくは意識的な拒絶の身ぶりが稼動している。つまり、「ダンス・ミュージック」を「踊(れ)ること」からいかに切断するか、という、極めてパラドキシカルな興味深い命題が、そこには存在している。この命題は明らかに、前述のゴームや、あるいはトマス・ブリンクマン(そしてその背後に隠れたリッチー・ホウティンの?)のようなアーティストたちと共通するものだと言えるだろう(すぐさま付言しておくが、この「切断」は、しかし「廃棄」や「無視」とは無論まったく違う。ここでの論述とは主題が異なるので、これ以上は立ち入らないが、筆者が危惧するのは、「踊(れ)ること」=身体的快楽を過剰に目的化=護符化することが、時として最悪の保守性へと転化しかねない、ということである)。
そこにはまた同時に、ラップトップ・コンピューターと、幾つかの画期的な音楽ソフトウェアの出現(より正確には一般化)以後の流動的かつ拡散的な音楽制作環境において、「音楽」の作り手=提供者が最低限維持すべき論理と倫理の獲得を模索する戦略が仄見えていた。そして、それはもちろん、高橋悠治が長年「テクノロジー」に対して採ってきた批判的スタンスと繋がっている。
このことは、渋谷が"ATAK001"に続くリリースとして、他ならぬ高橋悠治とのコラボレーション作品を発表したことで、更に強固に証明されることとなった。"ATAK002"はライヴ・パフォーマンスを元にしたものとはいえ、渋谷による周到で精緻なポスト・プロダクションが全面的に加えられており、単なる一回的な演奏の記録盤とはまったく別次元の、刺激的なオーディオ作品となっている(本誌前号に両者のインタビュー記事が掲載されているのでご参照願いたい)。
注目すべきは、この作品が高橋悠治にとって、コンピューター・ミュージックへの本格的な復帰を告げるものであるということである。高橋はかつて、のちに「音楽の反方法論序説」として纏められる長大なテキスト(現在はウェブ上の「青空文庫」でダウンロード可能。http://www.aozora.gr.jp/cards/000059/card374.html)の、彼自身によって一度は「最後のコンピューター作品」だとされた「翳り I〜VII コンピュータ音楽演奏システムのために」(93年)に言及した章(初出は「季刊INTERCOMMUNICATION」94年春号)の中で、以下のように書いていた。
コンピュータ・プログラムでは、どこかにかならず、ランダム変数がはいってくるが、乱数を発生させる式にはそれぞれの顔があり、使っているうちに、水に落したインクが水を染めていくように、全体として平均化されてくる。
このような「汚染」を避け、非予知性をたもつために、多重化・複合化、平均値や限界値を変える、といったくふうをしても、いつかは定常化への傾向が再帰する。
(コンピュータ・チップが固有のパルス発振のためではなく、自然音や楽器の擬態を演技させられているから、こうした問題が起こるのかもしれない。音のイメージから出発するのをやめて、チップを組み合わせて外部から刺激をあたえるだけなら、それらに固有のふるまいによって、人間的美学からは自由な音楽が生まれるかもしれない。1960年代アメリカのライブ・エレクトロニクがアナログ回路でつくりだしていた思い入れのない音響を
デジタルでも、だれかがやっているのかもしれないが。もっとも、デジタルではDSPとして、アナログ回路からの入力と組み合わせることしかできないかもしれない。)
「音楽の反方法論序説9/コンピュータ音楽 その1」(カッコ閉じは原文ママ)
前半部分は、前出の「数の楽器」「音楽とテクノロジー」とも共通する指摘だが、メモランダム的に書き留められた後半は、現在の視点から見ると、非常に示唆的である。既に触れたように、また上記の渋谷発言にも伺えるように、高橋はこのあと「水牛楽団」の活動に代表されるような、ありうべき「人間(性)」を規定/疎外する「テクノロジー」への反省的視点から「演奏する手から考える」ことへと向かったのだが、ここでは一方で、たとえ夢想的、SF的なものであれ(そしておそらくは反語的な意味合いも持つものではあれ)はっきりと「人間的美学からは自由な音楽」の可能性が述べられていたのだった。
ところでしかし、それからけっして短くはない歳月が流れた2001年には、高橋はこう書いている。
コンピュータ・ミュージックは、コンピュータでどんな音を出してもいい、というわけにはいかない。コンピュータ・ミュージックというスタイルにあてはまるものだけを演じなければいけないのです。だれがつくっても、あ、コンピュータだ、とすぐわかることがだいじ。
「書きかけのノート(2001.9)」
もちろん、これはアイロニカルな文脈で書かれている。だが、だとするならば、そこでは「人間的美学からは自由な音楽」でありながら、しかし「コンピュータ・ミュージックというスタイルにあてはまるもの」からも逃れること、という、きわめて困難な問題提起が為されていることになりはしまいか。
「人間」が「コンピューター(=テクノロジー)」を用いて創り出すものであるにもかかわらず、「人間」にも「テクノロジー」にも属さない「音楽=表現」?