クセナキスのもっとも有名な作品のひとつが「ペルセポリス」(71年)であることに異を唱える者はいないだろう。パリのスタジオ・アコースティにおいて制作された、8チャンネル・テープによる、1時間にも及ぶこの電子音楽の大作では、複数のアコースティック楽器による演奏と、集音マイクで拾集された様々な自然音や具体音が、ほとんど分け難いいまでに混然一体としたまま、大胆極まる電子的変調を加えられ、極度の緊張感を孕んだ、異様な音塊と化してしまっている。
この作品の初演は、イランのシーラーズの高原にある廃虚を利用した野外劇場で、日没後に行われた。
聴衆は、砂まじりの風の吹きつける石柱のあいだをあるきまわり、電子音響とレーザー光線にとりかこまれ、かなたの山をてらしだす巨大なカガリ火をみた。こどもたちのかかげたこれらのタイマツは、古代ペルシャ文字によって「こどもは地の光」というクセナキス自身のことばをかいた
高橋悠治「知の戦略 - クセナキスの場合」(『音楽のおしえ』晶文社刊)
「電子音楽」の歴史に敢然と屹立しながらも、明らかに例外的で畸形的な作品でもあるというべき「ペルセポリス」は、現在、複数のCDヴァージョンが存在している。オリジナルのLPは、フランスのフラクタル・レコーズよりCD化されている。エディションRZからリリースされた2枚組のオムニバスCDに収録されているヴァージョンは、2003年1月にベルリン芸術工科大学のスタジオで、ダニエル・タイゲがリミックスを行ったもの。元の8チャンネルから2チャンネルにトラック・ダウンされており、オリジナルよりも音質がクリアになり、個別の細部をある程度聴き取ることが可能となっている。
更にアメリカのアスフォデルからリリースされているヴァージョンは別のリミックスとなっており、エディションRZのヴァージョンと較べると、より激しさの増したサウンドとなっている。また、アスフォデル版「ペルセポリス」は、原曲に加えて、複数のミュージシャンによるリミックスを収めたCDが付属した2枚組となっている。参加しているのは、大友良英、池田亮司、ズビグニュー・カルコフスキー、コンストラクション・キット、フランシスコ・ロペス、ラミナー、メルツバウ、ウルフ・ランゲインリッヒの8組で、いずれも非常に興味深い仕上がりである。
中でも、メルツバウこと秋田昌美は、かねてより「ペルセポリス」を愛聴盤のひとつに挙げていたこともあり、力のこもったリミックスとなっている。メルツバウの「ノイズ・ミュージック」は、直情的で単線的なパワー・エレクトロニクスによる他の多くの「ノイズ」に対して、その長いキャリアの当初から、複数の音のレイヤーがうねうねと有機的に絡み合う独自のスタイルを持っていたが、そこに「ペルセポリス」のクセナキスからの影響を見て取ることはあながち間違いではないだろう。
周知のように、秋田昌美は、数年前にマッキントッシュのラップトップ・コンピュータを導入し、音作りのシステムを、長らく慣れ親しんできたアナログから、ほぼ完全なデジタルに移行した。このメルツバウのパワーブック化は、多くのノイズ・ファンに少なからぬショックと不安をもたらした。あのメルツバウの唯一無二のサウンドは、自作の電子機器やジャンク・エレクトロニクス、あるいはヴィンテージのアナログ・シンセサイザーなどを自在に組み合わせたシステムによってはじめて生まれてくるものだという認識が、当然のことながら支配的であり、それゆえに、このような極めてドラスティックな変化が、秋田昌美が造り出す音楽に、如何なる決定的な影響を与えるのか、誰もが多少とも疑わざるを得なかったからである。
ところが、秋田は「パワーブック化」という大きなシフト・チェンジを、あっけなく乗り切ってしまった。端的に言って、アナログからデジタルに移行しても、やはりメルツバウはメルツバウだったのだ。もともと多作で知られるメルツバウは、ラップトップ・コンピュータ導入以後も、以前と変わらず、いや、むしろより旺盛なリリース活動を開始し、すでにメルツバウによる「コンピュータ・ミュージック」の作品は、かなりの数となっている。秋田昌美は現在、新たな黄金期を迎えつつあるといっても過言ではない。
コンピュータによる自らの音楽制作に関して、秋田はかつて、筆者のインタビューに答えて、以下のように語ってくれた。
──コンピュータを使い出す以前から、メルツバウのアルバムやライブでは、即興性みたいな部分をかなり大切にしているという印象があるんです。リアルタイムで操作しながら音を録って、その後で編集するにしても、その時にも一回性みたいな部分が重要視されているのかなと。今でもアルバムを作る時には、以前と同じ様なプロセスをコンピュータでやってるような感じなんですか。
「自分では即興とは思ってないんです。たとえば絵を描く場合に構図とかを考えて、色を塗っていくわけですよね。そういうのに近い。出した音があって、そこから生まれてくるものなんです。予め何かあるわけじゃなくて、そこに音があって、そこから決定されていくっていうか、音の自然成長みたいな感じで」
──予めこういう音っていうような内在的な音のイメージがあるというよりも、まずとにかく何かの音を出してみる、あるインストゥルメンツとの向かい合いの中で音が生じてきて、それを秋田さん自らが聴いてみて、それが自分にとって如何なるものか、という問いかけが始まる。具体的に聞こえる音がないと何も始まらない。
「コンピュータっていうのは、顕微鏡を覗いているみたいな感じですよね。極端な話、たとえば1秒の音があれば、そこから音の周波数をいじくって展開させれば何時間の音でも作れる」
──ああ、どこまででもミクロになっていけるっていう。
「音の内側をこう裏返して見るっていうような感覚。だからそれがすごいノイズ的ってい
うか、やり方は違うんだけども。音の内臓という意味ではアナログの時と同じです」
「FADER.Vol.5」(HEADZ刊)
クセナキスは「音の雲」といい、秋田昌美は「音の内臓」という。外部と内部。興味深いことは、秋田が実際、作業の具体的なプロセス以外は、ラップトップ・コンピュータへの乗り換えを、本質的な態度変更などとはまるで考えていないらしいことである。確かにそれはもちろんそうだろう。メルツバウの音楽的特徴が、秋田昌美という個人の強固で一貫した美学に立脚したものである以上、方法論が根本的に変わったとしても、目指される結果が異なるわけではないからだ。とはいえ、「パワーブック化」以後のメルツバウの楽曲では、少なくとも二つの新たなファクターが前面に出てきたのではないかと、筆者には思える。
第一に、サンプリングの積極的な使用。他者に帰属する音源=サンプルに基づきつつ、自在に音を展開していくスタイルの作品が増えている。サンプリング元=参照先との何らかの意味での関係性を明示/暗示することで、楽曲の一種の起源を披瀝する一方、それは音の運動が、ある種の観念性へと解体してしまうことを防ぎ、現実へと繋ぎ止める効果も持っている。
第二に、編集作業の微細化。デジタルなシステムは、よりミクロなレヴェルでの音のエディットを可能にする。その結果、メルツバウの楽曲構造は、相対的に複雑さを増したと言える。ひとつの曲の中に多様なシークエンスが持ち込まれ、聴き手の意想外の唐突な場面転換なども含め、音楽的なドラマツルギーが飛躍的な拡がりを見せている。
「コンピュータだと何でもできちゃうんで、何でもはやらないっていうことですね。すごく音楽的に作ろうと思えばいくらでも作れる、むしろ、コンピュ−タを誤用、暴力使用する事が面白い」(同前)
テクノロジーの意図的な誤用。それは秋田昌美の基本姿勢と言えるものであり、そのラディカリズムは、アナログ→デジタルを通じて、まったく変わっていない。上に見たような、新たなファクターも垣間見えるにせよ、やはりメルツバウはメルツバウなのである。だがむしろ「パワーブック化」以後も、メルツバウがメルツバウであったという事実をこそ、われわれはもっと驚かなくてはならないのではないか?