TECHNOLOGICAL SOUNDSCAPE(SOUND&RECORDING MAGAZINE)

第十九回

 「ノイズ・ミュージック」。そもそもこの言葉自体が語義矛盾である。「ノイズ」とは本来的に「音楽」とは真っ向から対立する概念である筈なのだから。
 「ミュージック」と「ノイズ」を接続することによって、旧来の「音楽」は少なからぬ地殻変動を蒙ることになったが、と同時に「音楽」による「ノイズ」の回収というベクトルも、必然的に呼び起こすことになった。
 だが、むしろ「ノイズ・ミュージック」を担う者が、何よりも知っておくべきことは、この両義性そのものなのであって、「ノイズ」を「反=音楽」として信仰することも、反対に「ノイズ」を「音楽」の新たなるアスペクトとして享受することも、ともに厳しく拒絶した、いわば不可能な極点から、その「音」は発されていかなくてはならない。
 そしてメルツバウこと秋田昌美以上に、このことに意識的なアーティストはいないと思われる。「ノイズ」を論じた記念碑的な著書において、彼は次のように書いている。

 広義の文脈においてノイズは従来、音楽(コスモス)に先行するカオスであるとか、文化的音楽に対する否定的価値であるとか、また、音楽に対する非音楽であるといったような、音楽構造を消滅もせずに保証するテクニックとして捉えられてきた。あるいは、狭義の我々の文脈においてノイズとは、六〇年代以降のエレクトロ・ミュージック(現代音楽の実験を含む)の副産物であって、七〇年代後半のインダストリアル・ミュージックの線上に固有の輪郭を与えられたといえる。いずれにせよノイズを何か二項対立の一方の否定的価値と捉える限りは、その特異点としての積極性は与えられない。一方を他方の価値に入れ替わる、あるいは否定を媒介に二項対立を弁証法的に解決するといったようなものではなく、問題となるのは、ノイズをノマド的差異産出体として位置づけることになるように思える。
『ノイズ・ウォー - ノイズ・ミュージックとその展開』秋田昌美(青弓社)

 「ノマド(=遊牧民)的差異産出体」とは、このテキストが書かれた80年代の日本の知的流行を牽引していた『構造と力』の浅田彰によるドゥルーズ/ガタリ紹介に負うところが大きいものと思われるが、それはともかくとして、秋田が「ノイズ」を一切のネガティヴィティ抜きに、すなわち「特異点としての積極性」において評価しようとしていることが、ここにははっきりと示されている。現在もなお、時として幼稚かつ素朴な「アンチ音楽」として考えられている「ノイズ」の正確な把握がここにある。
 また秋田は、「ノイズ・ミュージック」と「テクノロジー」との不即不離の関係についても、早くから指摘していた。ドイツのヴェルクブント=WERKBUND(労働組合の意)というアーティストについて触れながら、彼は次のように書く。

 ヴェルクブントは匿名のミュージック・コンクレート・プロダクツである。ちょうどクセナキスが世界大戦を磁気テープ音楽で模倣したように、彼らは戦争風景を描写する。そして、未来派、騒音主義が開幕した一九二〇年代へと視線は遡行する。戦争が、肉弾戦から速度と運動能力を過剰化した近代兵器による「知覚の場の変貌」(ヴィリリオ)のスペクタクル舞台へと化した第一次世界大戦を境に、近代都市社会が躍進する。都市は光り輝く機械の騒音(ノイズ)の舞台であった。テクノロジーの進化と時期を同じくして、テクノロジーの「死」を高らかに奏する騒音音楽の誕生があった。
(同書)

 未来派のルイジ・ルッソロを嚆矢とする「騒音音楽=ノイズ・ミュージック」の歴史的系譜は、既に見てきたように、やがてもうひとつの、更なる「知覚の場の変貌」であった第二次世界大戦を経たのち産声を上げた「電子音楽」と遭遇することになる。こうして「戦争」と「ノイズ&エレクトロニック・ミュージック」(もちろんここで我々が思い起こすべきなのはあのサブローザのコンピレーションである)は、「テクノロジー」という函数を挟んで、一種の鏡像関係を形成していくだろう。

 「ノイズ」を音の内的な戦争状態として指向する時、音(ノイズ)は距離を喪失した無数の隔たった他者の手によって作られる。音(ノイズ)は固有のシンボル操作から逃れ、「身体」という単一性のパワーに呪縛される速度と連鎖反応によって生成される絶対ノイズとなって指向される。
(同書)

 この重要きわまる視点は、書名に選ばれた『ノイズ・ウォー』に端的に示されている。「ノイズ」は「戦争」の音楽的な隠喩としてある以上に、もとより物理的かつ実践的な意味での「音の内的な戦争状態」なのである。
 テクノロジーの「進化」とテクノロジーの「死」が表裏一体となっている「騒音音楽」の例外的な存在様態は、「電子音楽」そして「電子音響」にも、そのまま当てはまる。もっとも、ここでも単純な二項対立は避けられている。

(前略)問題はモダニズムの固定化した表象に何か別の表象を置き換えるという単純なことではなく、音楽の再現=表象機能を脱構築する音楽の内的な方法論からテクノロジーの問題を再検討することであるように思う。
 八〇年代初期以降盛んになるいわゆるノイズ・アヴァンギャルドの潮流の中では、一般に考えられているように反テクノロジーの方法論が試みられているのではなく、まして軽薄なテクノ賛美とも異なる。ノイズ・アヴァンギャルドにとってテクノロジーは音楽の形式を規定するが、テクノロジーを外交的・誇示的に使うよりは、むしろ音素材の研究といった内的控え目な使用法が一般的だ。そうした点では初期の電子音楽が試みていた素材実験に近似しており、古典主義的な反逆であるともいえる。しかし、実際のところ、規格化されすぎた現在の電子音響機器がノイズの創造に適していないという問題がある。
(同書)

 ハンドメイド/ジャンク・エレクトロニクスからラップトップ・コンピュータへの移行を鮮やかに果たしたメルツバウは、「テクノロジーの誤用」という問題意識と、「初期の電子音楽」とも共通する「音の素材論」への志向において、その態度を一貫させている。デジタル・シンセサイザー等の使用を自らに許そうとしなかった秋田が、コンピュータを選択できたのは、それが「規格化されすぎた現在の電子音響機器がノイズの創造に適していないという問題」を解決できたと看做したからだろう。
 そして実際に、パワーブックを操るメルツバウは、やはりメルツバウであったわけである。だが、この「メルツバウはメルツバウである」という強力なトートロジーは、それが強力であればあるほどに、実のところ、紛れもない「切断」を潜在させている。

 ひとは通常、どのような「音」を「ノイズ」と認識するのだろうか?
 もちろん個人差はあるにせよ、ごく一般的にいうなら、それはまず無秩序、カオス、ランダム等といった形式的な不安定・不確定要素によって定義され、そして多くの場合、音量的な過大さや音色/音質的な異様さ、極端さをその属性としている。
 こうした諸要素は、メルツバウの作品群からも顕著に聴き取れるものだが、アナログからデジタルへの跨ぎ超えを経て、なおかつ「メルツバウはメルツバウである」という時、しかしその事実を支えている具体的な方法とプロセスは、同じものではありえない。なぜならば、「アナログ」、すなわちハンドメイド/ジャンク・エレクトロニクス、それに何よりも秋田昌美という「身体」と、「デジタル」、すなわちラップトップ・コンピュータとは、根本的に異なるものであるからだ。
 仮に非常によく似た、あるいはまったく同じサウンドが聴こえてきたとしても、「アナログ・メルツバウ」と「デジタル・メルツバウ」において起こっているのは、実際には完全に別の出来事である。それらが「ノイズ」という同じ言葉で呼ばれていたとしても、それらは実は僅かなりとも「同じ」ではない。にもかかわらず、それらが聴感上は「同じ」方向を指しているということは、もちろん秋田昌美の「音」に関する透徹した美学によっているのだが、と同時に、「ノイズ」の「ノイズ性」を実現するために、コンピュータがアナログ機材とは異なるプロセスで、完璧に作動していることを意味している。

Last Update : 2004/04/23