TECHNOLOGICAL SOUNDSCAPE(SOUND&RECORDING MAGAZINE)

第二十一回

 1990年に書かれた文章の中で、秋田昌美はすでに次のように述べていた。

 音の複製行為において従来技術開発上の課題とされてきたのは、いかに表象=再現の間に介在する諸過程を消去し、見えないものとするかということであった。具体的には音の複製行為に伴う雑音を排除することである。複製行為は元のあるものの単純な転写ではあり得ない。複製行為は元の姿を別の支持体へ移し替えると同時に複製装置そのものの持つ雑音をも別の支持体に運んでしまう。例えば、磁気テープとテープ再生録音装置の間で生じるテープ走行ノイズや音のひずみがそれであり、こうした媒介の持つ雑音を可能な限り排除し、ゼロに近付ける作業が、ドルビー、DBX、デジタル・オーディオ・テープ等の開発等によって指向されてきた。
 こうした技術的媒介装置の痕跡を除去する意志は、電子楽器、サンプラー等の技術開発、また、その音楽的使用においても同様に浸透している。ここでは、電子的プロセスの痕跡を除去し、できる限り自然音や楽器音に近似させることが求められているのであって、この近似世界こそ自然とテクノロジーの共生によるハイパー・リアリズム世界なのだという認識が共有されている。
 しかし、他の表現メディアと異なり、本質的に再現芸術ではあり得ない音楽の産出行為において、自然と電子テクノロジーの対立は成り立たない。音楽の電子テクノロジーは模倣すべきいかなる「自然」も持ち合わせない。楽器を模倣し、スケールに従って調音される現在の電子楽器は音楽行為の進化上のヒューマニスティックな錯誤と言えるのだ。
『ノイズ・ウォー - ノイズ・ミュージックとその展開』秋田昌美(青弓社)
(註:原文では段落分けはされていない)

 この指摘は、現在から見ると、驚くべき先見性を持っていたと言える。以下に詳しくパラフレーズしてみることにしよう。
 秋田は80年代から一貫して「“ノイズ”は“情報攪乱、反システム”(ジャック・アタリ)的なツールとしての役割を音楽形態の内側へとずらそうとしていた」といった主張を行なっていたが、ここではむしろ、「ノイズ」と本来対立する概念である筈の「音楽」それ自体が、その精確な「複製=再現」を行なうべく、何らかのテクノロジーを関与させることによって、逆に、かつ不可避的に、具体的な音響レヴェルでの剰余や不足や偏差、すなわち「ノイズ」を招き入れてしまうのであり、しかも、実はそこにこそ「音楽」と「テクノロジー」の交点の可能性の核心があるのだという、極めてラジカルな意見が述べられている。
 つまり「ノイズ」は、「アンチ音楽」なのではなく、まったく反対に、「音楽」の「リプレゼンテーション(再現)」と「リプロダクション(再生産)」という二つの「Re」が抱え持つ技術的なフレームの内に、もともと潜在していたものだというのである。
 ここで前提とされているのは、「音楽」という現象は、厳密に言えば、常に「いま、ここ」で、ただ一度きりしか起こらない、反復不可能な一回性の出来事なのだ、という確固たる事実である。それはそもそも「本質的に再現芸術ではあり得ない」のであり、この点を意図的もしくは無意識的に取り違えることによって、レコーディング・メディアによる「音楽」の「複製」という行為が、かろうじて正当化されてきたに過ぎない。
 いや、更に厳密さを求めるならば、「複製」の「複製」という行為でさえ、更なる微細な偏差の介入を100%遮断することは出来ないし、それら「複製の複製」群が現実に「再生=聴取」される「いま、ここ」を構成する諸々のパラメーター──再生機器の特性やスペック、再生環境の条件、聴取者の身体的精神的コンディション等々──も、一度ごとに必ず異なっている。すなわち、本来「音楽」を「再現芸術」足らしめるべく開発された筈のレコーディング・テクノロジーが、「再現」どころか無限の可能態へと「音楽」を押し開いてしまうという逆説が、ここにはある。
 いわゆる「電子音楽」の登場は、すでに見てきたように「音楽」の素材論的な革新、すなわち楽音から離陸した「音(響)」の解放としてありながら、と同時に「再現芸術」としての「音楽」という誤謬(?)をも生み出すことになった。そこには最初から、二つのまったく異なったベクトルが存在していたと考えることが出来る。テクノロジーの関与によって、いわば「機械」の「音」としての新しい聴覚的可能性を切り開くことと、はるか昔、ほとんど広義の「音楽」の誕生の時点から延々と連なってきた「人間」の文化的な営みとしての「音楽」をより発展させるための、既存の「音(楽)」の「再現」と「複製」の可能性を辿ること。そして、実際の「歴史」の歩みとしては、圧倒的に後者が勝利していったことを、われわれは既に知っている。
 ところがしかし、そうした「再現」と「複製」自体が、他ならぬそれを可能にしたテクノロジーという函数によって、実のところ「再現」でも「複製」でもない、一種のキメラとしての「音(響)」の可能性をあらかじめ含んでしまってもいる。秋田は「音素材の解放」という方向性だけではなく、こちらのベクトルにも、「ノイズ」のポテンシャルを見い出そうとしている。それはつまり、テクノロジーの「音楽」への貢献を、そのまま「音楽」への明らかな制限へと裏返し、なおかつそれそのものをポジティヴに受け取ろうとすることである。

 『ポストモダンの条件』等で知られるフランスの哲学者、故ジャン=フランソワ・リオタールは、彼としては珍しく「音楽」を主題とした「聴従」と題されたテキスト(講演)の冒頭で、アドルノの『新音楽の哲学』から「素材の解放と共にそれを支配する可能性が増した」という一文を引いた後、次のように続ける。

 新しいテクノロジー(電子情報技術)のおかげで音楽に何が可能となるのか、についての質問は、新しいテクノロジーが音の世界で言明しうる権利と願望(欲望)との考察と検討をも規定します。
 権利と願望、といっても、作曲家、演奏者、聴衆、など、人間のパートナーたちのそれに限られるわけではありません。素材あるいは音の権利と願望でもありえます。アドルノの文の「素材の解放」という表現は、何かそれに近いことを思わせます。つまり、音楽の素材は、それまで課せられてきたある種の保護観察から脱する権利と欲望を持っていた、持っている、ということを。
 そしてアドルノの言葉の意味する逆説とは、この欲望と権利が言明され認められるや否や、つまり素材が「解放される」や、音はそのこと自体によって、またそれによって一層、技術の支配下に入ってしまうおそれがある、ということなのです。
『非人間的なもの』ジャン=フランソワ・リオタール/篠原資明他訳(法政大学出版局)

 しかしリオタールはまた、アドルノが別の場所でこう述べてもいることを指摘する。「技術は芸術作品が実際の存在物の集積以上のものとなるようにする、そしてこの「以上(=プラス)」が作品の内容をなすのである」(『美の理論』)。「技術」と「音楽/芸術」をめぐる、このようなパラドックスを、リオタールはこう纏めてみせる。

 するとこう言えるでしょう。音が解放されうるから、テクノロジーはそれを支配できる、と。またその逆も。そしてこの幸せな相互性が、原則として、音楽と現代のテクノロジーとの出合い(原文ママ)に向かって開かれている、第一に可能なものなのです。
(同前書)

 「音が解放されうるから、テクノロジーはそれを支配できる」と、それをそのまま逆転させた「テクノロジーが支配しうるから、音は解放されうる」の循環が、リオタールが言うように果たして「幸せな相互性」であるのかどうかはともかくとしても(アドルノはそれをけっして「幸せ」とは考えなかっただろう)、こうしたアドルノ=リオタールによる「音楽」と「テクノロジー」とのパラドキシカルな関係性の把握が、秋田昌美が敏感に感じ取った、「再現」と「複製」の機構とはまったく違った、いわば「ノイズ生産装置」としての「テクノロジー」なるものに、単なる「例外」とは別の照明を当ててくれることは確かなことだと思われる。

Last Update : 2004/07/09