アンリ・プスールが言う「音楽的-音響的な素材の最も微細な粒子」とは、字義通りに受け取るならば、フーリエ級数を用いた積分計算によって導き出された正弦波(サイン・ウェイヴ)を指していたと考えられる。プスールが「Seismogramme」(54年)を、そして「Paraboliques」(72年)を制作した、ケルンのWDRの電子音楽スタジオでは、設立当時より、フーリエ変換を応用した正弦波の分解・合成によって、セリー主義の限界のひとつとされていた音色の制御を行おうとする試みが、何人もの作曲家たちによって繰り返されていた。プスールの「Seismogramme」も、そのひとつである。
WDRの黎明期の音源は、ゴットフリート・ミハエル・ケーニッヒやプスールの作品集と同じシリーズである"ACOUSMATRIX 6 Cologne-WDR:Early Electronic Music"で、まとめて聴くことができる。このCDには、初期のWDRのプログラム・ディレクターだったヘルベルト・アイメルトを筆頭に、セリー主義の傑作のひとつ「2台のピアノのためのソナタ」(51年)で知られるカレル・フイヴァールツ、ケーニッヒ、のちにエンニオ・モリコーネやフレデリック・ジェフスキー、ローランド・カイン等とイタリアで最初の即興演奏楽団GRUPPO DI IMPROVVISAZIONE NUOVA CONSONANZAを結成するフランコ・エヴァンゲリスティ、ジョルジュ・リゲティ、ヘルベルト・ブレンなどが、1952年から58年までの間にWDRで作曲した電子音楽が収められている。
作曲技法におけるセリー主義とは、音の4つのパラメーター〜高低、長短、強弱、音色〜をセリーにしてコントロールしようとするものだが、従来の楽器演奏では音色を完璧に制御することは不可能だった。そこで音を正弦波の合成に置き換えるフーリエ変換によって、まさしく「音楽的-音響的な素材の最も微細な粒子」の次元で音色を扱うことが考えられたわけである。"Cologne-WDR:Early Electronic Music"に収められている「初期の電子音楽」は、いずれもこのアイデアに基づいた「習作」だと言える。もちろん同様の試みはWDRに限らず、他の国の幾つかの電子音楽スタジオでも行われていた。たとえば日本でも、NHK電子音楽スタジオにおいて、黛敏郎が1955年に、シュトックハウゼンの「習作?」(53年)を翻案した「電子音楽 習作?」を、56年に諸井誠と共作で、同じくシュトックハウゼンの「習作?」(54年)を題材とする「7のヴァリエーション」を制作している。これらはどちらも正弦波を基にした、ごくシンプルな「習作」である。
正弦波の「発見」は、しかしそれ自体にそれ以上の価値が置かれることはなかった。そもそも、それはセリー主義の発展形として、様々な音色合成(シンセサイズ)の前段階として措定されたものに過ぎなかった。つまり「音楽的-音響的な素材の最も微細な粒子」そのものは問題ではなく、「最も微細な粒子」のレヴェルで、音色がいかようにも合成可能となる、という可能性が重要だったわけである。
しかし、正弦波の合成のみで複雑な音色を得ることは、原理的には可能でも実際には極めて困難だった。フーリエ級数は「すべての周期関数は三角関数の和で記述できる」ということだが、この「すべての」ということが実は問題であって、音のような対象を扱う場合、その演算は途方もなく複雑なものとなり、現実には、ある特定の音を正弦波に分解することにも、正弦波を重ねて、ある特定の音を再現することにも、明らかに作業的な限界があった。倍音を含まない正弦波を合成して、ある程度以上の複雑さを備えた音を作り出そうとすることは、その時点では、ほとんど不可能だったのである(現在の「電子音響」においては、デジタルなフーリエ変換、いわゆる「FFT=高速フーリエ変換」によって、この制限は大きく改善されている)。そこで、正弦波ほど純粋ではない矩形波や鋸波の援用(先ほどの黛&諸井による「7のヴァリエーション」は、最初はシンプルな正弦波で始まり、矩形波、鋸波と次第に複雑な音になっていくという構成を取っている)や、周波数変調などが試みられていった。
このような「音色の合成(シンセサイズ)」というベクトルは、1956年に二人のアメリカ人技師、ハリー・オルソンとハーバート・ベラーによって開発された「RCAエレクトロニック・ミュージック・シンセサイザーMark I」と、同モデルの発展形である「Mark?」を導入した「コロンビア=プリンストン電子音楽センター」の開設(59年)、そしてロバート・モーグによる「モーグ・シンセサイザー」の発明(64年)へと繋がっていく。その後の「シンセサイザーの歴史」については、本論の主旨とは関係がない。ただ、あらゆる音を電子的に再現するという理念が、技術的発展とともに高度な実現を果たしていったということを確認しておけばいいだろう。また、このようなプロセスの端緒において見出され、すぐさま見捨てられた、最初の音であり最小の音でもある正弦波なるものと、そこから導き出される「ひとつの音」という一種の「概念」については、別の場所で詳しく述べたことがある(『テクノイズ・マテリアリズム』青土社刊)。だが、ここでは「現代のエレクトロ・アコースティック、電子テクノロジーと、音楽との間の関係性」(ディック・ラーイメイカーズ)という角度から、やや異なる照明をあててみたい。
ゴットフリート・ミハエル・ケーニッヒについて述べたように、初期の「電子音楽」とは、「音楽」というよりも「音響の科学」と呼ぶべきものであり、そこでは「作曲」という行為は、電子(電気)工学的な「実験」と、ほとんど峻別しがたい部分があった。ある意味では作曲家自身も「音楽以前」と認識し、それゆえに「習作」といった類のタイトルを付されることが多かった、それらの楽曲は、当然ながら、ごく限られた時期に集中しており、ほどなく「音響の科学」は、真っ当な「音楽」への階梯を歩み始めることになる。だが、シンセサイザーの本格的な登場と発展の陰で、ケーニッヒの「Funktion」(68〜69年)やプスールの「Paraboliques」(72年)のような、いささか時期外れの「音楽以前」=「音響の科学」的な「電子音楽」も、歴史上には点在しているし、ラーイメイカーズの「Canon」(64〜67年)のような、ほとんど「電子(電気)工学」の「故障」のシミュレーションのごとき、例外的で奇形的な作品もある。これらを、正統な「電子音楽」の進化の過程からは疎外された、いわば「脱=歴史的」なものと考えることは容易い。実際、これらは「音の再現」というベクトルからも、また「音色の探求」というベクトルからも、甚だしく逸脱したものだと言える。だが、90年代の「電子音響」とリンクしているのは、明らかにこれらの方なのである。これはどういうことなのだろうか?
ラーイメイカーズの項で触れた、フランス・デ・ワード、ロエル・メールコップ、ピーター・ドゥイメリンクスの3名によるユニット、ゴームは、既に述べたようにカポテ・ムジークというアルター・エゴを持っているが、二つを隔てるものは、カポテ・ムジークがアモルフなノイズ・コンクレートであり、ゴームがミニマル・テクノであるというスタイル上の差異だけではなく、むしろ使用されている機材の違いに因っている。
ゴームの活動開始は96年だが(当初はデ・ワードとメールコップのデュオだった。ちなみにカポテ・ムジークはデ・ワードのソロとして84年にスタートしており、二つのユニットの間には実に12年もの時間が流れている)、そのきっかけはメールコップが中古品特価販売店で見つけた、ある機材を、デ・ワードに渡したことだったという。その機材は、スチューデント・スティミュレーターというものであり、定期的なパルスを発生させるとともに、スピードや強度を変化させることが可能だった。デ・ワードによれば、それが一体どのような目的のために開発された機材なのか、詳しいことは不明だが、おそらく医療器具の一種であり、人間の睡眠のメカニズムをリサーチすることに使われていたのではないかと推測されている。デ・ワードは、この機材を使い、スティーブ・ライヒの「漸次的位相変移プロセス」を応用したミニマルなテクノ・トラックを作り、メールコップに聴かせた。それから何度かのやりとりを経て、彼らは1枚のアルバムを完成させた。それがゴームのファーストCD"STUD STIM"(97年)となった。言うまでもなく、このタイトルは、"STUDENT STIMULATOR"の頭三文字ずつを採ったものである。
ゴームは他にもコルグのMS 20、ローランドのSH 21、BOSSのSE 50などといった幾つかの機材を使用しているが、音作りの基本となっているのは、あくまでスチューデント・スティミュレーターであり、それは"STUD STIM"以後の作品でも変わっていない。ゴームの音楽は、スチューデント・スティミュレーターが発する、グルーヴを徹底的に排除した、単調で機械的なパルス・リズムを基調としている(敢えて"DISCO"というタイトルが付けられたアルバムがあるのが可笑しい)。それは、音色的には著しく貧しいものであり、むしろ意図的に貧しさを選択しているとさえ考えることができる。
ゴームの音楽の核心は、スチューデント・スティミュレーターというテクノロジーの特性に還元される。しかし、その特性とは、他の電子楽器に比べて、機能的に優れているということでも、他にはないようなユニークな機能が付与されているということでもない。まったく逆に、それは「貧しさ」と同義であるような特性だったのだ。