Computerとは「計算機」という意味である。それはつまり「計算」するためのテクノロジーであり、すなわち「計算」しかしないし、「計算」しかできない。
あまりにも当然の事実ではあるが、コンピュータを一種の「楽器」として捉えた場合、このことは極めて重要な意味を帯びてくる。
現代音楽を代表するフランスの作曲家/指揮者であり、またパリのポンピドゥー・センター内に置かれた、MAXの開発元としても知られるIRCAM(Institute de Recherche et Coordination Acoustique/Musique=音響/音楽の探求と調整の研究所)の所長も務めた(76年〜91年。以後は名誉所長)ピエール・ブーレーズは、たとえば次のように述べている。
私はプログラムの専門家ではまったくありませんし、それに私にはプログラムは書けませんが、一定の結果を得るために辿るべき論理は分かっています。私は楽器の論理や演奏家の身振りが、機械一一機械はそれ自体いかなる身振りも持ちません一一の潜在能力とは異なるということを知っています。たとえば、あるパッセージの作曲構成で偶然性が一定の役割を果たすべきだと決定すれば、演奏者に、幾つかの規則に従って、自分の意のままに操れるテクストを提供しつつ、演奏家の自由意志を当てにすることとなりますが、機械に提供されるのは、一定数の統計学的データです。演奏家は、テクストを研究して知っているので、自分が行なえる選択によって柔軟になった身振りを持つでしょう。機械は実際ランダムに選択します。方法は違いますが、結果はひじょうに近いものになるでしょう。
『ブーレーズは語る[身振りのエクリチュール]』ピエール・ブーレーズ/セシル・ジリー(聞き手)/笠羽映子訳(青土社)
IRCAMでの活動に関して語ったインタビューから引用した。従来の「音楽」の「作曲」の現場においてデフォルトであり続けてきた、「楽器」を「演奏」する「人間」というフレームに、それ自体いかなり身振りも持たないところの、「コンピュータ」の作曲プログラムが挿入された時に起こった変化について、ここでは特に「偶然性」の関与という部分を焦点に述べられている。
「変化」とは書いたが、しかし読まれるように、ブーレーズは結論的には「機械=コンピュータ」においても「偶然性」は十分にシミュレートできる。「方法は違いますが、結果はひじょうに近いものになる」と語っている。だが、むしろ問題は「方法」が違うということなのではないか。同じ「結果」を導き出すために、「人間」と「コンピュータ」が採用する「方法」の違いは、たとえば楽器や編成や奏法などの選択可能性といった、「音楽」内の差異のあり方とは、まったく異なっている。いや、そこで得られる「結果」はそもそも「同じ」だと言えるのだろうか?
ここで対比されているのは、「人間」の「意識/無意識」と、「機械」の「確率計算」である。「偶然性」ということを厳密に数学的な意味で捉えるとするならば、それをまさしく文字どおりに「機械」的に実現しているのは、もちろん「機械」ということになるだろう。「人間」の行為に完全なランダム性などはありえないからだ。
だがしかし、実際の「作曲」の歴史においては、まず「人間」の営みに、ある種のランダム性を導入するためのいくつかの試み(ジョン・ケージによるチャンス・オペレーションはその最適の例のひとつだろう)が行われ、その発展の過程のなかで、「機械」による関与が、いわば「人間」の補助的な役割を担いつつ登場してきたという経緯がある。つまり「音楽」における「偶然性」とは、数学的な、すなわち「確率計算」によって導き出されるような「結果」とは、そもそも別の事態を指していたのだと考えることができる。
イアニス・クセナキスについても見たように、もとよりある種の作曲家たちは、さまざまな形で「数学的なもの」と共作してきた。というよりも、そもそも「音楽」の「作曲」という行為の根源に、数学的な思考が横たわっていることは歴然としている。しかしクセナキスの場合も、「計算」をそのまま自らの作品として提示するようなことはなく、あくまでも「作曲」の過程におけるクリエイティヴな動因として、たとえば確率論を採用していたのだった。そこではクセナキスという「人間」は「音楽」の創造者として厳然と存在し続けている。
ところが、コンピュータという「計算」に特化した「機械」が押し開く技術的な可能性は、極端にいえば、「人間」のポジションを揺るがしかねないポテンシャルを有しているのではないだろうか?
ブーレーズは次のようにも述べている。
機械を使って敷延を行なう場合には、その都度結果をコントロールし、観察せねばなりません。どういうことになるか正確には分からないからです。作曲家は、そうしたことを前提とし、一定の方向へ進んでいく、限定された活動領域を持つわけです。音響的な結果それ自体に関して言えば、それに完全に確信を持つには、それを体験し、聞く必要があります。さもなければ、敷延は不可能です。時には、期待された結果をもたらさないという理由で、幾つかの処理を放棄せざるをえないこともあり、他方、ア・プリオリに考えていなかった他のいくつかの処理は、とても興味深く、音響的にはるかに重要であることが明らかになったりします。
(同前書)
「機械」は「計算」しかしないがゆえに、「人間」には逆に「どういうことになるか正確には分からない」という一種のパラドックスが、ここでは語られている。計算機は美学を持たない。すぐれて文化的(すなわち「人間」的)な営みである(と信じられてきた)「音楽」を成立させるために、作曲家はコンピュータが行なった演算の解を取捨選択し、自身の「音」に対する美的価値判断と継ぎ木してゆくことを必要とされる。すなわち「それを体験し、聞く必要」があると。
つまり「人間」の、きわめて「人間」的な意味での、感性や直観に基づく想像的=創造的な行為にもともと潜在している、こと「音楽」に限らず「芸術」と呼ばれ得る表現一般を可動するような、固定されざる剰余と不足のダイナミックな相関状態が、「機械」による杓子定規な「計算」とは、本質的に相容れないものである、という前提が、ここでは含意されている。「機械」にできることは、せいぜいが「人間」の具体的な労働を軽減することに過ぎないのだと。実際、「計算機」とは、そうした実際的なニーズによって生まれたのである。
「機械」の限界に対する、こうしたあらかじめの認識は、「作曲」に限らず、「演奏」という次元でも見い出される。
音楽家が、残響の多い空間にいる場合、音楽家は「自然に」一層ゆっくりと演奏し、残響の少ない空間では、「自然に」一層速く演奏するでしょう。音響的な諸条件は、ほとんど無意識的な反射行動を生じさせます。機械は、機械が耳にするものに応じて反応したりしません。そうなるかもしれませんが、今の所そうではありません。私たちは、実際には直接、聞き手としての体験に応じて変更することを余儀なくされます。演奏家の本質的な特質である身ぶりは、多様なカテゴリーに応じるものですが、それが、機械では、いわば幻影的状態でしか存在し得ないのです。
(同上)
現在の音楽ソフトウェアには、ある意味で「機械が耳にするものに応じて反応」すると呼べるような機能を持つものも実際には存在している。しかし、むろんだからといって、ブーレーズが述べている「幻影的状態」が解消されたわけでないことは言うまでもないだろう。そこで起きていることが、相変わらず「計算」であることには変わりないからだ。「機械」に対する「人間」の絶対的な優位は、そのまま堅持されている。
端的にいって、ここにあるのは、広義の「機械」の完璧な作動ぶりに対して、「人間」が抱え持つ不安定さと不完全さを対置し、そしてむしろそれゆえにこそ、そちらに豊かな意義を見い出そうとする視点である。ごく当たり前の、反論の余地のないような見識であるとも言えるだろうが、このような「人間中心主義」によって、巧妙に隠蔽されてしまうファクターが、今日のいわゆる「電子音響」には、明らかに存在している。