so"so" ライナーノート

 2002年の2月、僕はヘッズのバルーチャ・ハシム、その奥様でフォトグラファーの 明子さんと共に、ドイツに十日間程の視察旅行へ出かけた。極めて充実していた滞在 の全容については、のちに幾つか記事を書いたが、その際にベルリンのマーカス・ポッ プ宅を訪ねて、ディナーをご馳走になった時のことについては、これまであまり詳し く語る機会がなかった。まずはその話から始めたい。
 ベルリンの高級住宅街に位置するマンションの最上階(だったと思う)に、オヴァ ルのスタジオ兼マーカス・ポップの自宅(当時)はあった。マーカスから待ち合わせ の場所と時間を告げられた時は、てっきり自宅で待ち合わせて外に食事に出るのだと 思っていたのだが、なんと彼自身が料理とデザートを早い時間から準備してくれてい たのだった。このことは僕とハシムに少なからぬ驚きと感銘を与えたが、彼をオヴァ ルとして知るリスナーの方々にとって興味があるのは、その料理の美味しさと彼の客 人(僕らのことだ)に対する(いささかオヴァルらしからぬ?)行き届いた振る舞い、 というようなエピソードよりも、むろんオヴァルとしてのマーカス・ポップに関わる 部分だろう。
 今なおオヴァルの最新アルバムに当たる『オヴァルコマース』のリリースから1年 近くが経っていた。実はマーカスが何度目かの日本滞在をしていた数ヶ月前に、僕は 東京で彼と長いインタビューを行っていたのだが、それは未だに活字に出来ていない。 そのインタビューの時にも、彼は新しいコンセプトの必要性について語っていたが、 自宅での食事中の会話では、はっきりとオヴァルの終了と、オヴァルに替わる新しい プロジェクトへの展望を口にしていた。何度か写真でも見たことがある、彼のコンピ ューターが載った作業デスクのある部屋には、こちらが予想していたような膨大なゲー ム・ソフトが散乱しているようなことはなく(それらは見事に収納されていた!)、 むしろ目立っていたのは、書棚に整然と並べられた、主としてドイツのメディア哲学 者たちの書物の数々だった。フリードリッヒ・キットラー(『グラモフォン・フィル ム・タイプライター』『ドラキュラの遺言―ソフトウェアなど存在しない』など)、 ヴィレム・フルッサー(『テクノコードの誕生―コミュニケーション学序説』『サブ ジェクトからプロジェクトへ』など)、ノルベルト・ボルツ(『意味に餓える社会』 『グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた』など)といっ た現代ドイツの批判理論の最重要人物たち(もちろんベンヤミンやアドルノは言うに 及ばず)から、ポスト・テクノ・シーン最大のイデオローグともいうべきマーカス・ ポップというアーティストが多くのものを受け取ってきたことを伺わせた。オヴァル というプロジェクトは、CDスキップというアイデアと不可分であり、新たなプロジェ クトを始めるためには、まったく新しいアイデアが必要だし、またCDスキップとは別 のアイデアをコンセプトに据えるのならば、必然的に、それがオヴァルと呼ばれるこ とはありえない。だが今のところは、来るべきアイデアを模索しながら、忙しさのあ まり長らく出来ていなかった読書に時間を使おうと思っている。マーカスはこう語っ た。オヴァルに替わる、まったく新しいコンセプトを有する新プロジェクト?。僕が 強い興味を抱いたのは言うまでもない。
 それから1年半近くが過ぎた。そしてソーが登場した。
  だが、すぐさま断っておくが、ソーがマーカス・ポップにとって真の「ポスト・オ ヴァル」であるのかどうかは、即断を許さない問題であると思う。なぜならば、未確 認情報ながら、来年(2004年)にオヴァルのニュー・アルバムが予告されているから だ(この情報はソーのUS盤もリリースしたスリル・ジョッキーからのものであり、ア メリカでは発売されていない『プレ・コマース』である可能性もあるのだが)。それ にマーカス自身も、これがそれであるとは、はっきりとは述べていない。過去、理論 武装したトリックスターともいうべき、その激しい屈曲を帯びた言説と行動とによっ て、何度となく翻弄されてきた僕たちは、慎重な上にも慎重さを期さねばならない。
 ソーは、マーカス・ポップと、ベルリン在住の日本人女性豊田恵里子によるデュオ である。実は、先に触れたベルリンでの食事の際、マーカスと一緒に僕らを持てなし てくれたのが、他ならぬ恵里子さんだった。もっとも、その時点では彼女も音楽を作っ ているとは知るよしもなかった(しかし更に実をいえば僕はこの時、ドアの開け放た れた別室にマイク・スタンドが一本立っていたことを記憶している)。それも、マー カス自らが「オヴァルの正統な後継者」とまで言い切るほどであるとは。
 ソーとオヴァルの最大の違いは、もちろん恵里子さんによる歌詞とヴォーカルの存 在である。しかもそれらは日本語で歌われており、偶々この言語を解する僕たちは、 いささか不思議な感慨にとらわれることになる。ところで、ではソーは豊田恵里子の 「うた」をフィーチャーしたマーカス=オヴァルであるのかというと、それは違って いて、事実は恵里子さんがマーカスに出会う前から作っていた曲のプロトタイプを、 二人の共同作業で発展させていったのだという。マーカスによれば恵里子さんもコン ピューターを操っており、けっして「作詞作曲・豊田恵里子、アレンジ&プロデュー ス・マーカス・ポップ」という分担でもないらしい。とはいえ、このアルバムの随所 で聞こえる独特の音響的テクスチャーは、まぎれもなくオヴァルのものであり、新鋭 シンガー・ソングライター、豊田恵里子のデビュー作にマーカス・ポップがコミット した、という言い方にも、やはり語弊があるだろう。つまるところソーとは、二人の どちらが主導権を握っているのでもない、純然たるコラボレーション・ワークである と考えるべきなのだと思われる。
 オヴァルは後期(まだこの先もあるのかもしれないのだが)になってから、メロディ 的な要素が強くなってきたと、しばしば指摘されてきたが、実のところ、最初期の作 品からメロディアスな成分(?)は、オヴァルにおいて重要な位置を占めていた。か つてマーカス・ポップは、それを「デザイン的な要素」と呼び、オヴァルの本質から 疎外してみせたが、にもかかわらず、幸か不幸か(と敢えて言うが)、彼が「良い音 楽」「美しい旋律」「ポップな音」を、ごく自然に分かってしまう人間であるという ことは、疑いのないことだったと思える。そして、そう考えるならば、彼がソーのよ うな試みにいつか足を踏み出すことは、予想できたことだった。では、これはいわば、 マーカス・ポップにとって、ジム・オルークにとっての『ユリイカ』、リチャード・ ヤングスにとっての『サフィー』のような意味を持った作品として、長く記憶されて ゆくことになるのだろうか?‥‥‥それはまだ分からない。ただはっきりと言えるこ とは、マーカス・ポップが単なる手慰みとしてソーを始めたのではない、ということ だ。彼はいつだって本気なのである。
 避けては通れない問題だと思えるので、やはり触れることにするが、ここ数年のあ いだに、エレクトロニカのポップ化とでも名指すべき現象が、非常な勢いで全世界的 で進行している。より明確に述べれば、それはメロディと「うた」への回帰というこ とであり、ことによるとソーもまた、その一つに数えられることになるのかもしれな い。確かに外形的にはそうなのだが、インディトロニカとかフォークトロニカとか呼 び名は何でもいいが、そうしたものの殆どが、従来のポップ的(ロック的?、フォー ク的?)な感性に依存し、それゆえにサウンド・プロダクションとしては、一般的な 観点からみた洗練や完成度を無反省に目指すか、あるいは逆に素朴さや拙さをリスナー の共感への強要に用いようとするかの、いずれかであるのに対して、ソーの場合は、 そのどちらでもない、真の意味でオルタナティヴなポップの次元を切り拓こうとする 野心が、たとえ未だプリミティヴな段階であるにせよ、明らかに感じられる。いや、 ソーにおいては、旧ポップ的な耳では未完成に感じられるような部分こそが、厳密に 計算されたものであり、歪な印象を受けるディテールにこそ、ポップをアップデート させるキーが潜んでいるのだ。
 かつてマーカス・ポップは、オヴァルプロセスというソフトウェア=コンセプトを オヴァルの数年に渡る活動のエンジンとしていたが、ソーにも同様の役割を担うもの が存在している。だが今度はソフトではなくハードである。So-Fi PAは、ソーのサウ ンドの聴取のためにカスタマイズされたPAシステムであり、自家製のアンプとスピー カーから成る。マーカスから送られてきた写真を見ると、それは昔の蓄音機を思わせ るレトロな形の真っ白なスピーカーに、真空管を使ったアンプが繋がっているもので あり、見た目はきわめて優美なものである。このシステムを通すと、たとえばこのア ルバムの音が、一体どのように変容することになるのか、今のところ想像するしかな いのだが、まぎれもなく音楽のデジタル化の極点から登場してきたと言えるマーカス・ ポップが、ここへきて、このようなアナログなアイデアを打ち出してくること自体が、 実に興味深いことだと思える。
 最後に、この日本盤は、スリル・ジョッキーからのUS/EU盤の完成後に3曲のアディ ショナル・トラックを追加し、更に全体のミックスにも手を加えた、現時点での完全 版であることを付記しておく。
佐々木 敦(HEADZ/FADER)